「善知鳥」 十

「善知鳥(うとう)」

その日は、前日までの天気予報を裏切る梅雨晴れの青空が朝から広がっていた。濡れた緑の色濃い艶めきと、濃紺の絵の具を光で溶いたような空は、瞼を焼かれるような、眼を刺されるような眩しさだった。

椋二は近鉄橿原線結崎駅に降り、駅前の公営団地を抜け、川西町と三宅町の間を東西に流れる大和川の支流、寺川の堤防沿いを西に向かって一キロほど歩いた。奈良盆地中央に位置する磯城郡川西町から三宅町にかけての一帯は、大中小の古墳が多数点在し、同じように散らばる古刹の杜と合わせて深い緑と水辺の豊かな土地風情を醸し出していた。川の向こうの畦道には水溜まりを避けて歩く幼い子供連れや、散歩中の老人の姿があった。宮前橋を過ぎ、道なりに更に西へ進むと、右手に梅戸の集落と島の山古墳の周濠が見えた。椋二は昔、このすぐ近くの川西町役場付近に仕事で来た時のことを思い出しながら、汗の滲む手で紙袋の持ち手を握り締め、ひび割れや凸凹の目立つ舗道を歩いた。

約一年前の電話で、元妻が棒読みの台詞のように述べた言葉の中に唯一あった固有名詞である、県立しきの杜総合病院。その広大な駐車場の敷地が見え、奥向こう、陽炎のように聳え立つ建物へ足を進めた。土曜日ということもあり病院の一階ロビーは半分ほど照明が落とされ、人も疎らだった。椋二はまず総合案内所で精神医療センター内の児童思春期病棟を確認し、別館三階の病棟へ向かった。途中、腕時計の針が九時四十五分を指すのを見て、事前に調べた面会時間開始の十時までしばらくあることに気付き、一階の総合ロビーに戻って、ガラ空きのベンチソファに腰を下ろした。煙草を取り出しかけたが、すぐに引っ込めた。椋二は前屈みになって俯き、息を大きく吐いた。横に立て掛けた紙袋が倒れ、中の一冊が飛び出て床に落ちた。三列前の若い親子連れが振り返ったがすぐ前を向いた。小学校低学年くらいの男の子は小さい額に冷却シートを張り付けられていた。椋二は落ちた本を拾い、今度は深く座り直して足を組んだ。斜め前にある初診・入院受付の窓口の横の大きな水槽に金魚が数匹、やや濁った水の中を泳いでいた。

十五分という時間をこれほど長く感じたことはなかった。椋二は膝に置いたままの本に目を落とし、その真っ赤に光る水母を見つめた。まだ魚が好きか、まだ赤い色が好きか、分らない。もしかしたらもう、興味を失くしているのかもしれない。目を合わせてくれるだろうか。少しでも声が聞けるだろうか。自分を父親だと、認識するのだろうか。

椋二は元妻に連絡をしなかった。椋二は自分自身の臆病や卑怯より、元妻に対するこれ以上の不義理を怖れた。今更引き取るなどという夢想は、誰でもない、彼女に対しての不遜であった。彼女が祈るように寄り添い続けてきた月日の果てに行き着いた場所がここであるのなら、遠くからその場所を守るしかないのだと思った。ただ一度会って、それからこの先の展望を描いても遅過ぎることはないのではという、甘えと言えば甘え、逃げと言えば逃げだった。祖父の遺した本一冊と、新たに買った海の生き物図鑑最新版、熱帯魚の写真集を持ってここへ来るのに、自分は一体何年掛かったのだろう。余りの滑稽さに笑い出したくなるのを抑え、それでも、と椋二は思った。

それでも、来たのだ。勝手な親の自己満足に過ぎなくとも、会いたかった。それは本当だと思いたかった。

十時五分を過ぎていた。椋二は先ほど行き掛けた別館への渡り廊下を通り、階段を上って、三階の病棟の分厚いガラス戸を開け、入り口の目の前にある受付窓口で人を呼んだ。すぐに看護師が仕切りカーテンを開けて顔を出し、にこりともせず「面会ですか。ここにお名前と、住所、電話番号のご記入お願いします」と言い、「これ、付けて下さい。帰られる時は、ここへ返して、またここに退出の時間を書いて下さい」と数字の入ったバッジを渡し、記入欄を指差した。そして付け加えのように、「何号室のお子さんですか」と言った。椋二が「はじめて来たので。鈴村幸汰の、父です」と言うと、「え?何ですか、鈴村さん?」と自分と同年輩くらいの女の看護師は耳をこちらに向け訊き返した。椋二は眉を顰め、もう一度息子の名前を繰り返すと、女は雀斑の浮いた青白い顔に手を当て思案顔をしながら後ろを向き、名簿のようなファイルを取って開きながら「当院にそのようなお名前の患者様はいらっしゃいません。失礼ですが、何か、お間違いではないですか」と言った。

「え?いや、ここ、しきの杜病院ですよね?」

「ええ。そうです」

「去年の、ちょうど、今頃だと思うんですが。ここに入ったのは。退院したんですか」

看護師の女は一瞬の間の後、「去年ですか?」と面倒臭そうに小さく溜め息を吐くと、詰所のデスクのパソコンに向かい、しばらくしてから窓口に戻り、「過去二・三年の入退院の履歴と、あと外来の方も見ましたけど、そのようなお名前のお子さんは見当たりません。なので、病院をお間違いではないですか」と最後まで事務的な口調で述べ、椋二の手元の許可証バッジをちらっと見た。そして、茫然として動かない椋二に、「この地域で精神科や心療内科の児童思春期病棟のある病院は当院のみですが、外来のクリニックや、少し遠いですけど、他の精神科病棟のある病院をご案内しましょうか」と言ってボールペンをカチカチ鳴らした。椋二は看護師の女の言うように、単に病院を間違えたのだと思った。奈良市と大和郡山市、生駒の主な精神科病棟のある県立病院を挙げてもらい、礼を言って病棟を出た。看護師の女の癖の強いハネ字で書かれた病院名のメモを目で追いながら、先ほどより人の行き交いの増えたロビーを早足で抜け、病院を出た。

堤防沿いを歩きながら椋二は元妻に電話を掛けた。たった一度聞いただけだ、聞き間違いの可能性は高い。事前に連絡をしなかった浅はかさを心のうちで嗤いながら、コール音に耳を澄ませていると、《お掛けになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになってお掛け直し下さい》というアナウンスが流れ、ぶつりと切れた。椋二は立ち止まり、携帯電話の画面を見つめた。Eメールを開き、彼女のアドレスにメールを送信したが、すぐにエラー表示のメールが返信されてきた。元妻の母親の電話番号が残っていることに気付き、掛けてはみたが、何回かのコール音の後、留守番電話サービスの案内が流れ、無言のまま切った。

どこかで安心していた。この電話ひとつあれば、いつでもどこに居ても連絡が取れるということに、自分は安心していたのだ。何年も会わずにいても、連絡がなくても、その気になれば幾らでも会うこと、繋がることは容易だと心のどこかで高を括っていたのだ。

ひび割れたアスファルトの舗道を見つめ、椋二は、函館の自宅前の、雪解け後のぐったりと砕けた道路の一部を思い出した。大家に言っても中々直らないと、同じアパートに住む婆さんに頼まれ、ネットでアスファルト補修用の常温合材を取り寄せて仮舗装をしたが、強度は弱いため、またしばらくするとひび割れが生じるだろう。あくまで一時的な補修だ。何年もその場しのぎの補修を繰り返したあの道路は、全体に新しい合材を流し重機を入れて転圧するしかない、いや、もう路盤自体が、その下の路床自体が、しっかりと固まっていない限り、必ずひび割れを繰り返すだろう。

椋二は足元が揺れていることに気付いた。何度か溶けては、凍り固まり、また降り積もった雪の上を歩く際のような心許なさを感じ、緑の蒸した匂いに包まれた沿道を歩いた。

結崎から近鉄橿原線上りの起点、大和西大寺へ向かう途中にある筒井駅で降りた椋二は、筒井町の元妻のアパート、同じ町内にある母親のハイツと廻ったが、それぞれ別の名の表札が掲げられていた。その足で息子の在籍する郡山西中学校へ行き着いた時には、太陽は真上で照り輝いていた。

土曜日ではあったが正門は開いており、校舎前の駐車場には車が十台以上停められていた。階段を挟んだ運動場は人気なく、窓を閉め切った校舎の押し迫るような静寂に少し逡巡した後、職員用の入口を見つけ、中へ入った。下駄箱の横に職員室に通じる窓口があり、ベルと来客用の記入用紙が置いてあった。ベルを鳴らす間でもなく近くに居た職員が気配に気付いたのか、窓を開け、「こんにちは」と顔を出した。

短髪の二十代の男の職員の朗らかな声に、ここへ来るまで全く自動的に、機械的に動いていた椋二は何かが解けたようにふっと我に返り、言葉に詰まった。

「保護者の方ですか?」

白いTシャツにタオルを首から下げた男は、関西弁の訛りのない、明るい声音であったが、眼は一瞬で相手を値踏みするような険のある鋭さを持ち、「そうです」と椋二が答えた後もその視線を外さなかった。

「担任の先生に御用ですか?学年とクラスをおっしゃって頂ければお呼びしますよ」

「二年の、鈴村です。支援学級にいます」

若い男の職員は眉を微かに動かし、「え?」と口を開いたまま椋二を凝視し、「鈴村君、ですか?」と怪訝そうに言った。まるで聞いてはならない言葉を聞いたような反応だった。

「息子が入院していると聞いていた病院に居ないんです。母親とは、連絡が取れないので、学校なら知ってるかと。いきなり、すみません」

軽く頭を下げたが、職員の男は最初の朗らかさが嘘のような低い声音で「少しお待ち下さい」と言い、窓を閉めた。職員玄関で五分ほど待った後、校舎の廊下から「あの」と女のか細い声がし、白のポロシャツに紺のスラックスを履いた小太りの女が腰を屈めながら近付いて来た。

「あの、鈴村君のことで何か・・・あの、鈴村君のどういうご関係でいはるんですか」

「担任の先生ですか?幸汰の父です」

「え?あ、そう、ですか。すみません、お父さん居てはらへんのやと。あの、それで、幸汰君のこと、知りはらへんのですか」

「入院したとしか」

四十手前くらいの女は化粧気のない顔を手で半分覆って、「そうですか・・・あの、何て言うたらええのんか、幸汰君はもう、居てへんのです。去年の、六月、ちょうど今くらいでしたやろか、校舎の三階の窓から、誤って落ちてしまって」

「は?」

「もう、ほんまに不幸な事故で・・・あの、ほんまにかわいそうやったと思いますけど、一部で言われたようないじめによる自殺なんてもんでは、なかったんです。色々調べましたし、遺書も何もなかったですし、幸汰君は、その、支援でも通常のクラスでも大人しい子で、たまにパニックは起こしてましたけど、自傷言うんですか、そういう行為までは一度も私達、見たこともないんで、そういう危険性にまで考えはちょっとなかなかいきませんで、別に目を離したとか、そういうことでもないんです・・・とにかく、ほんまに、残念やったと思います。お母さんも、入学前に何度も見学においでになって、私や通常学級の担任とも何度も学習の進め方や内容を話し合われて、多分、就学先のこと色々悩まれはったと思うんですけど。よう頑張らはって、その甲斐あって幸汰君も、うちの学校に馴染み始めてた矢先であんなことに」

三階の窓から落ちたという一語に椋二の意識は留まり、それ以上何を聞いても穴だらけの脳味噌から零れ落ちていった。目の前の女教師が詰まるところ何を言いたいのか、遠い意識の隅で察しはしていたが、その言葉の裏を窺うのはおろか、額通り受け取ることも出来なかった。女教師は椋二が何も知らないただの哀れな父親だと分かったのか、こちらを穿ち見るような様子を引っ込め、「ほんまにかわいそうで、お母さんもお気の毒で見てられませんでしたけど、でも最後、気丈に、誰のせいでもない、あの子の運命やったんですって言わはったんが忘れられへんのです」とどこか感心したように頷きながら言った。

「それ聞いてから、私も、ふと、気付いたというか、思ったんですけど、幸汰君は、もしかしたら、鳥になろう思て、飛んでしもたんやないかって」

「鳥?」

「おかしい思わはるでしょ。でも、幸汰君、いつもは明るい光とか電気の灯り嫌うのに、たまに、えらい綺麗な青空の日に、校庭や、中庭に出たがって、こう、腕をゆっくりぱたぱたさせて、廻るんです。ちょっと嬉しそうに笑って。他の支援学級の子供達が真似すると、怒ってやめてしまうんですけど。なんか、私、あの時の幸汰君、よう思い出すんです」

「その日は、青空やったんですか」

「え?ああ、ええ、そうやったと思います。それで、ひょっとしたら・・・」

女は余計なことを言ったという表情で言い淀み、「あの、そういう訳ですから、その、何やせっかく来てもらってこんな玄関先でえらい失礼しました。ご家庭のことですから、色々あるとは思いますが・・・」と濁した物言いで職員室の方に目をやった。

職員玄関の正面突き当たりにある大時計は昼の一時を指していた。校庭の方から人の気配が一斉に立ち、低く野太い掛け声や、大勢が走るまとまった足音などが聞こえ始めた。

近鉄大和西大寺で奈良行き急行に乗り換え、窓枠に茫々と流れる平城宮跡の緑を見送りながら、休日の車内に弾むように響く子供の声を聞いていた。ドアの前に立ち、椋二は変わらない平坦な街並みと、手もとの写真を交互に見やった。郡山西中学校を去る際、幸汰の担任であった女教師が校門まで追い掛けて椋二に手渡した一枚の写真には、中庭のような所で支援学級の生徒数人と並んで映る幸汰がいた。花壇に苗を植えている途中なのか、皆軍手をして、スコップを持ちしゃがんでいた。一番右端で膝を丸めて斜め上を向く少年は確かに、脳裏に刻まれた七歳の息子の面影を持っていた。いや、そのものだった。撫で肩の小さい身体を縮こませて座る姿はあまりにもあどけなく、幼かった。椋二は写真を手に提げていた紙袋の中にすっと落とした。

違うと思った。鳥になりたかったのではない、あの子は、魚になりたかったのだ。空を飛んでいたのではなく、海の中を泳いでいたのだ。

すっと風景は消え、目の前は真っ暗となった。短いトンネルを過ぎると、近鉄奈良駅地下構内の電灯の光が目を射した。早く降りようと急かす子供と、それを宥める親の声に押されるようにホームを降り、東出口に通じる階段を上った。行基像の建つ噴水広場前に出て、椋二は僅か二十日ほど前、ここに降り立った時に起こった自虐の感情がまた新たに生起し続け、何もない空っぽの身体をすり抜けていくのを感じていた。幸汰が両手を広げ、窓から飛び降りるさまを、何度もスローモーションで再生する脳は同時に、またもとの生活に戻るだけだという傍観者の眼と、闇の色をした瞳を思い起こす卑小さを生み、所詮自分という人間は何か、恐らく人が人と足りうるものが欠落しているのだと思った。

観光客で賑わう広場とは反対の駅ビル構内に足を進め、角にある郵便局のATMボックスに入った。自分の口座から全額七十五万円引き出すと、それを元妻の口座へ送った。冷房の届かないボックス内はサウナのような蒸し暑さだった。駅ビルを出て、混雑するバス停に向かう。長い列を作るJR奈良駅方面行きや、法隆寺方面行きの停留所と違い、青山住宅前行きのバスの前は閑散としていた。三・四人の老人が乗る発車前のバスに乗り、座席に座ると、椋二は携帯電話を取り出し、格安チケットサイトを開いて伊丹函館間の片道チケットを調べた。明日の午前十時二十分伊丹発ANA二万七千円のチケットを予約する際、瞼の裏に薄茶色の瞳が浮かんで消えた。走り出したバスの揺れに身を任せながら、椋二は上を向いて目を閉じ、座席の背にもたれた。何も、許されてはいなくとも、ただもう一度、あの瞳を見たいと思った。

奈良坂の頂上、県道沿いにある停留所で降り、椋二はいつもの奈良坂へ下る道とは反対に、そのまま県道沿いを下って行った。人気のない道路は照りつける午後の陽射しに銀色に光っていた。坂を下ってほどなく、老人ホームの白い建物が見えた。ホームの広大な敷地付近に、車が何台もあぶれたように不規則に停まっていた。隣のグラウンドの駐車場に停め切れなかった車のようだった。グラウンドを囲う緑色のフェンス周辺には、大勢の人が寄せ合っていた。近付くにつれ、子供の掛け声やベンチの応援の声、歓声や歓談の声がひとつの大きなざわめきとなって耳に届いた。椋二は歩道から老人ホームの敷地に入り、外野の方へ回ろうと車の間を通って行った。低い木立の間を抜けてグラウンド側に出ると、背後から、新しく来たらしい車の砂利を裂くようなブレーキ音がした。荒々しく停めた黒のアルファードからサングラスを掛けた背の高い男が出てきて、バンッと音を立ててドアを閉めると、助手席に回ってドアを開け、中からゆっくりと細く白い足を出した女の手を取った。短い丈の白いワンピースを着た女は降りてすぐに黒の日傘を開き、男に手を引かれて老人ホームの敷地正門の方へ歩いて行った。

グラウンドは外野まで人垣が出来ていた。一塁側のフェンスには、見覚えのある少年団の団旗が掲げられていた。その下に、アウトドアチェアを広げて陣取る母集団の群れがあり、フェンスを挟んだその前を、これもまた馴染みのある紺地に青のラインの入ったユニフォームを着た子供達が座っていた。椋二はまだ人垣の少ない三塁側の方へ回った。三塁側は老人ホーム敷地の植樹によって深い木陰に覆われていた。相手チームの母集団の他に、見物に来たホームの職員や老人の姿もちらほら見られた。椋二は三塁側の選手ベンチの後方辺りに立った。スコアボードの数字は小さ過ぎて見えなかったが、五回を終わったところのようだった。鼓坂少年団の攻撃を終え、相手の赤いユニフォームを着た選手達がぱっとこちらのベンチに向かって駆けて来た。選手達に向かって「次やで次!」「点取るよー」「こっからこっから」などと親達が声を掛けていた。守備に就いていた子供達は皆それぞれバットを持つと、横一列に広がって素振りを始めた。遠い昔を思い起こさせるその場の雰囲気に飲まれそうになった時、一塁側や外野の方から悲鳴のような歓声が起こった。鼓坂側の選手達がそれぞれの守備位置に就き、ボールを回し始めていた。椋二はピッチャーマウンドに立つ少年の姿を見た。いや、このグラウンド内外に居る全ての人間が彼を見ていた。背番号1を背負った少年の立ち姿は、頭から首、背中、腰、脚の先まで何もかもがまっすぐだった。何球か投げ、帽子を取り、額に流れる汗をユニフォームの袖で拭った。初めて陽の光の下で見る彼の髪は、透けるような明るさだった。

「千歳!」

喧騒の中、よく通る男の声がグラウンドに響いた。一塁側、フェンスを挟んだネクストバッターサークルのすぐ後ろ辺りに立つ一際背の高い男が片手を突き上げ、「千歳!頑張れよ!」と叫んだ。少年は帽子を深く被り直すと、声の方をちらっと見て、右手を僅かに上げた。背の高い男の横には畳んだ日傘を片手に、スマートフォンを掲げて写真か動画を撮ろうとしている佐織が居た。男は白いシャツに引っ掛けたサングラスを取り、眩しそうに目を細めて掛け直し、傍の佐織に笑いながら何かを話していた。俯く彼のやや長い髪が、緑がかった茶色をしているのが遠目からでも分かった。

六回、先攻の相手チームの攻撃が始まった。応援と歓声が木霊する三塁側の雑踏に紛れた椋二の耳にはもう何も耳に入らなかった。聞こえてくるのはただ、あの少年の息遣い、土を踏み均す音、空を切り裂くボールの音・・・

手が、足が、身体が、飛んでいきそうな浮遊感に見舞われた。椋二は晴天の下に、手を広げて舞うように駆け回る、黒く小さな影を見た。影は「千歳!千歳!」と声高に叫んでは地を踏み、跳ねていた。その手に握り締めたものはぼろぼろのグローブか、それとも血塗れの包丁か、そのどちらでもあり、そのどちらも持たない小さな影は、誰に見咎められることもなく空に吸い込まれていった。

やがて三塁側の応援の声が徐々に小さくなり、諦めのような嘆息が周囲に広がっていく一方、一塁側は更に膨れ上がった歓声に包まれていた。メガホンを手にしゃがれた大声を上げる監督、同じくメガホンを持ち鼓舞するコーチ陣、応援歌を弾むように歌う控えの選手達、母集団の手拍手や喝采、ライト側に陣取った小学生の集団の甲高い声援。あらゆる人の声の飛び交うグラウンドの中心に立ち、少年はただ一人口を固く閉じ、前だけを見据えていた。振りかぶる手前の、ほんの一瞬顔を右に向けた少年の瞳と、目が合ったような錯覚を起こし、椋二はこれもまた幻影なのだと顔を覆った。

県道沿いを離れ、奈良坂に入った。長屋の路地への道筋を通り過ぎ、椋二はそのままゆっくりと、陽を浴びて白っぽく輝く坂を下った。五日前の夜、驟雨の後の濡れて黒く光るこの坂道を酒井の爺さんの軽トラで下った時のことが、まるで遠い昔の記憶のように、薄い膜を垂れて脳裏に映し出された。

窓に顔を向け助手席に座る千歳に、椋二は初めて自分の住む土地の話をした。

「俺のな、今おる所も、ここと同じ、坂の町や。でも違うんは、坂を下った先には海があるんや」

「坂の下に、海?」

「せや。上の方からそれをずっと見下して歩いてると、このまま海の底まで歩いて行けそうな気ぃしてくる時がある。冬、雪なんか積もったら、真っ白い中に海だけが浮かんで見える時もある。何もあらへん、しょうもない田舎やけど、でも、そこにずっとおるんは、多分俺も、海に戻りたかったんかもしれんな・・・」

椋二の声に、千歳はじっと耳を澄ましていた。そして、フロントガラスの向こうを見つめ、小さく「俺も、そこに行きたい」と呟いた。

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