「善知鳥」 三

「善知鳥(うとう)」

「千歳君、今日学校終わったら私の家、来うへん?」

昼の中休み、校庭から二階の教室へ戻る途中、千歳は隣のクラスの佐久間凛花に呼び止められた。「ハイ!」と差し出されたピンクのタオルハンカチを一瞬の間の後受け取り、うっすらと滲む額の汗を拭った。その様子をじっと傍で見ていた凛花が「ね?」と返事を促す。

「あ?今日も練習や」

「えー、だって最近ずっと練習やん。ちょっとくらい休んでも大丈夫って、千歳君この前言うてたでしょ」

癖のない長い髪を指に絡ませ、上目遣いを向ける凛花からオレンジベルガモットの甘ったるい香りがした。千歳は腕に触れてこようとする凛花の手にタオルハンカチを返し、廊下を歩き出した。

「太一にもう言うたから。無理や」

「ええーじゃあ、明日は?金曜やし、ゆっくり出来るでしょ」

千歳は「あーええよ」と、面倒になって適当に答えた。その答えに納得した凛花は満足そうに「じゃあ明日ね」と微笑み、丈の短い濃紺のスカートを翻して弾む足取りで自分の教室へ戻って行った。わざとらしく距離を取った位置から、先ほどまで一緒にサッカーをしていたクラスの男子達の「仲ええなあ、千歳くぅん」と冷やかす声が廊下に響いた。ふざけて肩を組んでくる一人をいなし、千歳はむっとする教室に入った。カーテンから洩れた陽に細かい埃が煌めき、席に着いて談笑する女子達の黒い頭の上で舞っていた。追いかけっこかど付き合いか何か分からない遊びに興じる男子の一人が女子達の囲う机を乱しながら駆け回り、女子が一斉に文句を言う。集中砲火を浴びた奴が文句を返しながら後ずさってきたため、行く手を塞がれた千歳は奴の尻を蹴飛ばした。窓際の最後尾の席、丸々と太った身体を前屈みに倒し、ハードカバーの本を読む大西拓磨の前に座り、窓を開けた。青臭い緑の風が鼻先を掠める。目線を落とすと、一階の植え込みに隠れて芝生の草を食む二頭の仔鹿がいた。

「なあ、明日お前ん家行っていい?」

「ええけど」

拓磨は顔を上げた拍子にずれた青いフレームの眼鏡を直しながら言った。「でも、明日って、千歳、野球やろ?俺、また太一に怒られんの嫌や」

「大丈夫や」

「ほんまか?」

窓の外に顔を向けたまま答える千歳に、拓磨は不承不承頷き、再び本に目を落とした。本鈴が鳴り、千歳が斜め前の自分の席に戻っても、拓磨は本から目を離さなかった。

生温い空気に包まれた五時間目の授業は先週受けた学力テストの返却だった。クラスの平均点が他クラスより全教科低かったと、最初から不機嫌さを隠しもしない担任の垣内は、一人ずつ教卓の前に呼びつけ、説教を交えて返却をした。途端張りつめた空気が教室に流れる中、千歳の思考はちらちら頭上を舞う埃と同じくひとつのところに留まらずに散っていた。答案用紙を叩く音や垣内の苛々とした声が、散り散りに舞う思考の間を抜けていく。もともと物事を突き詰めて考える習慣のない頭には、順序立てて整理をする習慣もない。文字の羅列が左から右に片づけられていく一方で、夢想染みた考えがいたずらに駆け回る頭に千歳は疲れていた。ばらばらの感情に乱され、熱に浮かされたような心地すらするのに、心は重く沈みきっていた。茫々に伸びた白い毛の混じる眉を吊り上げていた垣内は、軽く息を吐いてその眉をぐっと下げ「次、伊槻さん」と言った。

千歳は返却された四枚の答案用紙を机に置き、ざっと目を通した。算数、理科、社会は満点だったが、国語は九十八点だった。最後の文章題の解答に赤い△が付いていた。『迷う』と題された随筆の読み解く最後の応用問題、『迷う』ことに対して筆者の考えをまとめた上で自分の考えを述べるという解答の、自分の考えの方に△が寄っていた。〈迷いのない人生など味気ない、本当に先のことが分かっていたら、生きていく楽しみなんかなくなって、何かをしようとする気が失せるのではないか、というのが筆者の考えです。自分もそう思います。〉の〈自分もそう思います〉にふられた赤い△を見つめ、千歳は答案用紙を無造作に折って机の中に放った。垣内の眉毛はまた元の角度に吊り上がっていて、この時間いっぱい続くのであろう個人説教に、教室のどこからともなく曇った溜め息が洩れていた。

先のことが分からないから、どうしてよいか迷う。文章題の一文が頭を過る。国語の感想文の類を苦手とし、『迷う』ことについて考えたことも深刻な迷いに陥った経験もない身では、この随筆の筆者の言う迷いのある人生を肯定する意見に、なんとなくそうなのだろうと同意する他なかった。自分もそう思います、と投げやりに書きつけたその時は。

昨晩ろくに眠れず、頭の芯がインフルエンザに罹った時のようにぐらぐらと揺れていた。寝不足と、ようやく眠りについた明け方頃に見た、はっきりと色を持った奇妙な夢のせいだった。黄土色に濁った沼地のような所を、黒光りする鱗を持った蛇が這い廻っては極彩色の水の中を泳ぐ夢。眠りに落ちる寸前まで頭にへばり付いていた黒い蜥蜴ではなく、同じ鱗を持った蛇の、しなる縄のような身体が浮かび上がっては潜っていった。蛇の尾は極彩色の水中で蠢くうちに魚のひれとなり、蛇と思って見ていたものはいつしか鉛色の魚となって黄土色の干からびた地を這っていた。千歳も地面に伏せた状態で顔の半分が張り付いて引き剥がせず、必死でもがいていた。もがくうちに、いつの間にか立っていた自分の前に佐織がいた。顔じゅうに付いた土を優しい手つきで払う佐織の顔が消え、足元に落ちた土の塊りを見ると、それは自分の目や鼻や口であり、千歳は自分の顔が何か全く別のものに変えられていることの焦躁にうなされて目覚めたのだった。

朝、いつにも増して機嫌の悪い千歳をあれこれと構い立てする佐織のマジックカーラーの付いた頭や、いつも通り七時四十分に迎えに来る太一の腫れぼったい顔などを見ていると、瞼の奥に着いた夢の色彩は途端に色褪せていったが、気だるい熱っぽさだけは残り続けた。千歳は頬杖を着く右手の指で自分の顔の凹凸をなぞり、目を閉じた。先のことを、これほど知りたいと思ったことはなかった。同じだと知りたかった。蜥蜴のようなあの男も、これまでの男達のようにいずれ佐織に飽きて捨てられるのだと知りたかった。そうすれば、降って湧いた熱に惑わされずに済むのだと思った。

終業のチャイムが鳴り響くなか、言いたいことをあらかた言い終えた担任のやや和らいだ顔を見るともなしに見ながら、千歳は短い爪で掻き毟るように強く右の掌を握り締めていた。

転害門前の交差点で信号待ちをしていると、それまで返却された学力テストの話をしていた太一が突然「あっ」と間の抜けた声を上げて横に並ぶ千歳の顔を見た。

「お前、明日佐久間と遊ぶ約束したやろ」

テストの話のトーンとはまるで違う強い口調に、千歳は思わず太一の目を逸らした。歩道の柵の向こう、門前の芝生には鹿が数頭足を畳んで目を細めていた。

「何か言えや」

「いや、そんなこと言うてへん。あいつが勝手に、っていうか何でお前知ってるん」

「佐久間が教室で言うとった。でかい声で。明日も千歳君うちに来るねーんって」

千歳は黙った。妙に再現性の高い太一の言いように腹が立ったが黙った。太一の表情は少しも笑っていなかった。青信号に換わっても向かい合ったまま立ち尽くす二人の傍を、観光案内所から出てきた大学生のグループが通り過ぎ、更に後ろから観光バスに戻る途中の団体客が押し寄せ、そのざわめきに飲まれるようにして二人は横断歩道を渡った。

「お前、何でそんなこと言うねん。今週は、ていうか、高円杯までずっと練習やろが」

「せやから、ちゃうって言うてるやろ。行かへんよ」

「ほんまか?」

太一は胡散臭いものを見る目で千歳を睨んだ。今日、同じような目つきと台詞に遇った気がしたが忘れることにした。

「ほら、早く帰って着替えんならんやろ」

話を切り上げるべく千歳は太一の肩に手を置き、歩を速めた。国道369号線沿いの緩やかな坂道には真夏の格好をした外国人のグループや班行動中の修学旅行生が行き交い、和菓子店や小料理屋、カフェなどの軒先が並ぶ賑やかな東大寺界隈を二人は足早に通り過ぎた。焼門跡の交差点を曲がり静かな生活道路に入ると、太一は千歳の横に並び「おい」と低い声で言った。

「お前、何で、佐久間と付き合ってんの」

「何で、って今頃?去年あいつが」

「そうやなくて」

佐久間凛花と付き合うことになった経緯を訊かれたと受け取った千歳は、面倒に思いながらも真面目に答えようとしたが、太一は苛々とその言葉を切った。

「どこが良うて付き合ってんのか訊いてんのや。あいつ、めちゃくちゃ性格悪いぞ。今日も奥田いじめて遊んでたし」

「奥田?・・・ああ、なかよしにおるやつ?」

「そうや。今日の掃除、俺の班なかよし学級やったけど、あいつら女子全然掃除せんと、喋ってばっかりで。机とか椅子触りたないって言うて、しよらへん。おらんくなったと思ったら、女子トイレに奥田閉じ込めて笑っとった。俺らが行ったら、勝手に入って来たとか何とか言うてごまかしてたけど」

去年の秋の音楽発表会、合唱中に最前列で失禁をして以来、「お漏らし」や「おしっこ菌」などというからかいの対象となり、特に女子からはあからさまに忌避されていた同学年の児童を思い出した。授業に応じて通常学級と支援学級を行き来する〈なかよし学級〉の児童とは、クラスが違えば特別行事以外で関わる機会はあまりない。体育館の舞台後方から見た、ぽっかりと空いた人の輪の中で小さい肩をすぼめて震える彼の姿が浮かんだ。

「奥田だけやない、今日は楠木のことも泣かしてたし」

また咄嗟に誰の顔も浮かばず、聞き逃そうと黙る千歳に太一はわざとらしく溜め息を吐き「ボールとバットのキーホルダー」と呟いた。

「ああ」

新人戦の前日にフェルト製のボールとバットのマスコットを渡してきた女子のことだと察し、千歳は曖昧に頷いた。白いボールには赤い縫製ラインと背番号の1が入り、バットの方にはローマ字で自分の名前の刺繡が施されていた。手作りにしては完成度の高いそれを「すげえ」と言って受け取った時のことを思い出し、同時にはにかんだ楠木春奈の顔が浮かんだ。家の鍵に付けたキーホルダーはしかし、数日後凛花によって勝手に外されていた。全部後から聞いたことだが、凛花は外したキーホルダーを楠木春奈の前で捨て、クラスのグループラインを使って言い触らしたのだった。似たようなことは以前にもあった。一体どういう情報網を持っているのか、千歳に好意を持つ女子をその都度暴いては槍玉にあげてきた凛花の所業は、いつも自分の預かり知らぬところで起こっており、決して快くはないが、かといっていちいち凛花を問い質したり、よく知らない女子を庇いだてしたりするだけの時間も労力もなかった。それを薄情だとでも言いたいのか、太一はたまに非難がましい態度を見せることがあった。

「楠木にスマホの写真か何か、見せて、明日もお前がどうとか言うてたぞ」

「いや、せやから、遊ばんって」

千歳は頭を掻き、斜め後ろを歩く太一の方を振り返った。眩しい新緑の若草山を背にする太一の仏頂面にすぐ前を向く。一瞬、見慣れたその横面を殴ってやりたい衝動に駆られた。

「佐久間の、どこがええねん。可愛いからか」

「・・・まあ、強いて言うなら顔と胸かな」

答えるまで仏頂面を解かない相手に、面倒臭くなった千歳は投げやりに、けれどもあくまで率直に答えたが、それは勿論やぶ蛇だった。太一は手に下げていた体操着の袋を千歳の胸元に投げつけ「最低やなお前」と顔を赤くした。弾みでガードレールの下に落ちたそれを拾い上げ、千歳は太一の腹目掛けて投げつけ、走り出した。

「千歳!」

「急げや、キャプテン。今日は現地集合な」

突然駆け出した千歳に、前を歩いていた女子のグループが驚いて脇に逸れ、後ろから「千歳!」と叫ぶ太一の声が静かな路上に響いていた。

なだらかな稜線を描く山際は茜色に染まっていた。千歳はトンボを掻ける手を止め、薄ぼんやりと霞む低い山々を眺めた。足が痛かった。腕も肩も、身体の至るところの筋肉が火照り、けだるい重さを持っていた。グラウンドの土に沈みそうな、重力に押さえつけられる感覚が千歳は好きだった。頭の芯の熱は汗とともに発散されたのか、ただ重力に負けて感じないだけなのか分からないが、幾分すっきりとしていた。

「おい、何さぼっとんねん」

翔大がトンボの先で足を小突く。振り向いたその先に、自分より頭一つ分下にある翔大の呆れ顔と、その更に後ろを立つ太一がいた。練習中はいつもと変わらない真面目一徹のキャプテン面をしていた幼馴染みは、一転して何か腹に溜めているような憂いの籠もった眼差しを向けていた。そんなに心配なのかと千歳は思い、すぐに目を逸らした。スパイクで深く抉れた箇所の周りをレーキで掘り返し、トンボを掛けて土を均す、その繰り返し。均した土を手でなぞり、千歳は重い身体をこのままグラウンドの土に沈めたい欲求に駆られた。

用具を運んでいると小堀が近寄り、「修正してようなっとる、ええ塩梅や」と千歳の両肩を掴んで言い、目を合わすことなく一人頷きながら、太一と翔大のもとへ向かって行った。何も修正などしていないのに良くなったとはどういうことかと、おかしくなった。解散後、千歳は早々とグラウンドを出て自転車に跨り、まっすぐ坂を下っていったが、国道に合流する交差点の信号で後ろを走っていた太一に追いつかれた。

「何で先行くねん」

不貞腐れた様子でぼやく太一に、「これ、スピードやばいな」と自分の乗る自転車の車体を指差した。ハマーのフルサスペンション搭載のマウンテンバイクは、先月離れて暮らす父が十二歳の誕生日プレゼントに買ってくれた物だった。坂道や凸凹の悪路の多い街乗りに便利だからという父の勧めと、見た目がおしゃれだという理由で賛成する佐織に押されて決めたが、車体が自分には重すぎて未だに手にしっくりと馴染まなかった。千歳が、乗り慣れないマウンテンバイクのせいにしてごまかそうとするのを見越した太一は、鼻で笑って「危なっかしい。せやから俺の後ろ乗っとけって」と言った。

「お前のママチャリ、ケツ痛いねん」

「今度座布団括り付けといたる」

真面目な顔つきでそう言う太一に、千歳は思わず「いや、いらんわ」と笑った。太一はやや表情を和らげて隣を走り「今日、監督機嫌良かったな」と言った。

「おもくそ打たれたけどな。意味分らん」

首を振る千歳に、太一は何とも言えない苦笑いをして頷いた。どちらが合わせるでもなく、ブレーキを掛けたり離したりしてだらだらと国道沿いの坂を下っていると、「お前さ」と太一が低い掠れ声を一層低めて切り出した。彼が何を話そうとしているのかだいたい分かった。

「マジで、もう、あんな奴と付き合うなや。そもそも合わんやろ。お前は無愛想やし、偉そうやし、ええ加減で、ほんまどうしようもない性格やと思うけど、ほんまは優しいやろ」

「なんやそれ」

「拓磨がいじめられてた時、お前助けてたやんか。バスの席とか何かでペア決めんのもいつも拓磨と組んで」

「何の話や。別に、助けてなんか。あいつうるさないから、ちょうどええんや」

「お前はそうでも、向こうからしたらそうちゃうやろ。拓磨だけやなくて、他にもそういうやつおる。楠木もそうや。いつやったか、プールの時、女子一人だけ泳がれへんの馬鹿にされてたあいつを、自由時間削って教えてたやんか。お前にとってはどうでもええことかもしれんけど、された方はちゃう。ずっと覚えてるんや。そういう、俺には出来ん、なんていうか、自然なやり方でそうやって助けてるんや。俺はほんまは、お前の方がキャプテンに向いてると思う」

思わぬ言葉に千歳は横を見る。冗談言うなと笑うだけの余地を、幼馴染みの真剣な横顔は与えてはくれなかった。太一は更に、黙ったままペダルを踏む千歳に畳み掛けた。

「人をいじめて笑とるやつなんか、最低や。そんな奴と平気で一緒におれるお前が、俺には分からん」

太一の言うことは最もだと思ったが、だからといって同じ目線に立てないことも自覚していた千歳はただ黙って彼の速度に合わせて走らせた。ユニフォームを抜ける風が冷え冷えとして感じられ、心臓が震えているような悪寒が起こった。それと同時に細波のような反発心が広がっていく。そうだ、お前にはきっと分からないだろう。

「今日、走るか?」

坂を下りきり、焼門跡の交差点を曲がり直線道路に入ったところで、太一は沈黙に耐えかねたように声のトーンを上げて言った。夜の自主練習の後の走り込みを一緒に行うことがあったが、足首の疲労が続き千歳はしばらくの間止めていた。

「いや、止めとくよ。ごめんな」

自分が何に対して謝っているのかよく分からなかった。女子大裏の通路を曲がると、歩道には大学生や会社員の帰宅を急ぐ姿があり、二人は車道の脇を一列となって進んだ。太一の家はもう一本手前の通路を抜けた一戸建て住宅が集まる区域にあったが、千歳の家の通りを迂回する道順は、二人が一年生の時に起こった事件のせいで決められたものだった。午後二時過ぎの人気のないマンション前の通路で、千歳は黒いワゴン車を運転する若い男に連れ去られそうになったことがあった。自力でマンションの中に逃げることが出来たことと、当時離婚問題で疲れ切っていた佐織に余計な心配を掛けたくない思いから、周囲の大人には一切言わずにいたが、太一だけには話した。それから太一は千歳がマンションのエントランスホールに入るまで見送るようになったのだった。すっかり習慣化され何の疑問も持たなくなったその行為の端緒を思い出し、千歳はもういいのではないかと思った。

植え込みの煉瓦が囲うマンションのゲート前に、一人の男が立っていた。五十メートル先から目にしたその男の姿は、一瞬幼い自分を車に引きずり込もうとした男の姿と重なったが、全く別の生々しい嫌悪感とともに立ち消えた。ハンドルを握る手が震えていた。自宅の前に着きマウンテンバイクを降りた千歳は、目の前で煙草の煙をゆっくりと吐く黒いTシャツとクラッシュジーンズ姿の男を睨み、無言で通り過ぎようとした。

「今まで練習か?お疲れさん」

男の声に、道路の脇で自転車に跨ったまま停まっていた太一が反応し、鋭い声を上げた。

「千歳、なんやこいつ」

「知らん。太一、また明日な」

千歳はそう言って煉瓦造りのアプローチを過ぎ、マウンテンバイクを持ち抱えエントランスホールに入ろうとしたが、男にバイクの後輪を掴まれ立ち止まった。

「これ、返しに来ただけや」

男は千歳の背負うリュックのポケットにボールをねじ込むとすぐに踝を返し、太一の横をすり抜け、薄暗くなった道に消えていった。

「善知鳥」 四へ

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