「善知鳥」 八

「善知鳥(うとう)」

五月最後の日の朝は、昨夜の大雨から一転して初夏らしい青空が雲間から覗いていた。

午前中、餅飯殿もちいどの商店街の古書店の店主が軽トラックでぬかるみのひどい路地へとやって来た。店主は四十代くらいの神経質そうな青白い顔の男で、路地に降りるなり嫌そうに細い眉を寄せ、きっちりと上まで留めたカッターシャツの襟首に手をやり、「鶯花堂おうかどうの泉です。黒田さんのご自宅はこちらでお間違いないですか」と長屋の並びを見渡し、椋二の全身をじろじろと眺めた後、わざとらしく首を傾げた。とんだ無駄足を踏んだという不満がその顔には滲み出ていた。椋二はこんな人間に祖父の蔵書の査定を頼むのは躊躇われたが、面倒なので黙って居間に通した。

査定は一時間ほどで終わったが、鶯花堂の店主は最初に見せた尊大な態度を幾分か和らげ、椋二に買い取り額と内訳を説明した。およそ見積もっていた額の二倍近い査定に、椋二のほうも文句はなかった。

昼過ぎ、酒井の爺さんが町内会の余った仕出し弁当を持ってやって来て、なぜか居間で一緒になって今日二つ目の弁当を食べ始め、椋二よりも先に平らげた。弁当と昨夜の車の礼を言うと、「ほんで、いつあっち行くんや。えらい片付いとるけど」と爪楊枝を歯に挟みながら言った。椋二が「そのことですけど、まだしばらくおることになりそうで。それで、ちょっとこっちでも日雇いでも始めようかと」と話すと、酒井の爺さんは丸っこい膝を打って「なんや、そうかいな。それやったら、うち来たらどないや。信之の組、今人足りてへん言うて、役所でぶつくさ言うとったさかい。今日にでもわしから言うとくわ。はい、決まりや」と、今すぐにでも駆り出されそうな勢いで捲くし立てた。そして分厚い唇を歪めて「で、どうなんや。上手くいってるみたいやが、ひょっとして再婚とか、あんのか?」と訊いてきた。椋二は突然吹っ掛けられた言葉に「は?」と箸を止めた。

「せやから、あれ、お前の子供なんやろう?中学生か?最近ようこの辺で見掛けん子おるなあ思うてたら、椋の子やったとはなあ。それにしても、なんやえらい別嬪やな。嫁さんに似とんのか?ああ、元嫁さんか。まあ、でもなんやかんや言うてあれくらいの男の子っちゅうんは母親より父親の存在が大事になってくんねん。あるやろ、ほら、お母ちゃんには言われへん悩みとか。せやからな。今まで居らんかった分、傍に居たらなあかん思うわ。あれやで、責めてるんやないで、これからなんぼでもやり直せるいうこっちゃ。ほんで子は鎹て昔から言うやろ?それで寄り戻す夫婦なんかようけおる」

滑らかな爺さんの弁舌に椋二は面食らい、「いや、ちゃいますよ」と笑うと、「何がちゃうんや。自分かて息子とキャッチボールなんて嬉しいんやろ、向こうもそうや。でも一時のことやったら余計辛いわ。男やったら腹決めんならん。金だけ送ってたらええなんてことはないんやからな」と言うと、酒井の爺さんは茶を啜り、またにやけた笑みを浮かべた。

「信之も言うとったけど、何や、昔の女と寄り戻したって、あれ、嫁さんなんやろ?向こうもお前に会うちゅうことは、昔のことはもう水に流せるいうことや。嫌いやったら会うかいな。まあ、そんなすぐ再婚の話にはならんかったとしても、その腹積もりを男はした上で動かんならんねん。椋ちゃん、わしはな。これは皓さんが導いてくれはったんやと思うねん。皓さん、椋二には何もしてやれんかった言うてよう酔うた時泣いてはったんや。おのれの子供と、別れ別れになる辛さ、皓さんが一番よう知ってはるからなあ。せやから、わし、皓さんの代わりやあらへんけど、どないかして幸せになってほしてなあ」

最後は泣きの掛かった声で言われ、椋二はもう否定する気も起きなかった。爺さんの言うこと全てが今の自分に突き刺さる重い言葉であることに間違いはなかった。ただ、子供と昔の女が酒井の思う人物と違うというだけだ。

「けじめはつけよう思うてます。戻んのを遅らしたんはそのせいです。酒井さんの言うように、俺もこれは祖父が呼んでくれたんやと思うようになりました。再婚はないと思いますが、子供は、出来れば、引き取りたいと・・・」

椋二は自分の口から出る言葉に自分で驚きながら、一方で妙に納得もしていた。むしろ、心の奥底をひっくり返されたような気分にも拘わらず、決して不快でも苦痛でもないことに驚きがあった。酒井の爺さんはうん、うんと目を瞑って頷き、「よう言うた。そのためにもまず、仕事やな。よし、分かった。そういう気でおるんやったら、わしはわしに出来ることやったら何でもやったるで」

椋二は頭を下げた。何の見返りもなく、自分にこういうことを言う人間が未だいることに、無性に泣きたい気持ちになった。これは自分自身に向けられたものではない。祖父が苦労を重ねて築き上げてきた、人の縁というもののおかげでしかない。自分はとても祖父のようにはなれないと思いながら、それでももう、何もかも捨てて目を背け続ける人生から抜け出したいという願望は少しずつ、確かに芽生えていたのだ。そして、その腐りかけた種に不相応の肥沃な土を与えたのが祖父ならば、あの少年の存在はまさに雨だった。

酒井の爺さんが帰った後、椋二は居間で、鶯花堂に売った分以外の残りの書籍をまとめた紙袋三つを三畳の間口に置き、二階の四畳半の和室を掃除した。掃除を終えた後は、居間で手元に残すと決めた数冊のうちの一冊を捲り一服した。

昨夜、古畳の上に胡坐を掻いて座り、この本を捲っていた少年の、いかにもつまらなそうな顔が浮かび、椋二はほんの少し、煙草を咥える口元を緩めた。彼はいったい何になら興味を惹かれてくれるのだろう。自分には彼の気を向けさせることなど出来ない。自分の息子ですら、何ひとつ理解してやれなかったのだから。

魚が好きな子供だった。金魚や熱帯魚を飽きずにいつまでも見ていて、横から誰かが「綺麗やね」とか「お魚さん好きなん?」と声を掛けると、癇癪を起こした。水族館に連れて行くと、浅瀬の渓流を再現した水槽に侵入し、警備員や職員に親の監督不行き届きを詰られ、後に正式に賠償金を請求された。鮎や山女のいる水槽に四つん這いになり、鼻先の水面を凝視する息子の姿に、椋二も妻も凍り付いてしばらく動けなかったのだった。

自閉症。アスペルガー症候群。高機能発達障害。五歳の息子がいくつかの病院で診断され付けられた、いくつかの病名だった。保育園では誰とも遊ばず、皆と同じ行動を取らず、一人遊びの最中に誰かが近寄ると威嚇するように吠える、泣く、物を投げるなどして、園から度々連絡があった。はじめの頃、妻から息子の他害行動を聞いても椋二はさして大事のようには捉えなかった。どこか信じられない気持ちもあった。癇癪持ちではあったが、普段家では妻が心配するほど大人しく、虚弱体質で、身体も同年代の子に比べて小さい息子に暴力的な面があるとは考えられなかったのだ。大人し過ぎて周りに上手く溶け込めないだけだと最初は軽く考えていたが、自分よりずっと息子の近くに居る妻はその異様さに神経の全てを尖らせるようになり、徐々に弱っていった。高校生で妊娠、出産した妻は、ただでさえその余りの若さが社会的な枠組みの中で枷となっていたのもあり、精神的に追い詰められ、そして自分は同じく高校を中退して働かなければならず、ただ人並に金を稼ぐことの難しさを痛感しながら一日中働き、それ以上の労苦を負うことに無理があった。そう、最初から無理だったのだ。妊娠が分かった時、椋二は当然堕胎手術を受けるだろうと思い、まずその費用の工面に頭を巡らせた。すでに家出同然で祖父の家を離れ、友人の家を転々としていた身の上であり、祖父に頼むわけにはいかなかった。バイトを増やせばどうにかなる、高校も辞めていいと考えていた椋二に、彼女はただ一言「産みたい」と言った。

「産みたい。だって、ここに赤ちゃんおるんよ・・・椋二君は男やから、分らんやろうけど、私は、ここにおるのに、生きてんのに、殺すやなんて出来ひん・・・」

男だから分からないだろうと言われてしまえば開いた口を閉じるしかなかった。実際彼女の、生きているだの殺すだのという言葉には違和感しかなく、頭の悪い自分でも目に見えて苦労すると分かる道をわざわざ選択するだけの理由に値しないと思われた。それは彼女の親も同じだった。けれどもシングルマザーである彼女の母親は、娘の頑なな態度に突如折れ、「あんたはやっぱり私の子やなあ。情が強うて、もう母親の顔してやる」と泣き、出産を認めたのだった。男の身で、まして母親の記憶のない椋二はこの女達の情とやらを理解出来ないまま、ただ、一方で父親の存在すら不明の自分が父親になる、一人の人間の親となるということに漠然とした悦びが湧いたことも事実だった。自分は父親のように女を捨てて逃げないし、自分が選んだ女は子供を決して見捨てたりしないのだという、何の根拠もない張りぼての自負につき動かされて家庭というものを持った、今にして思えば、これもまた女達のように何と不確かな、感覚的で曖昧な、下らない意地だったことだろう。若気の至りと言ってしまえばそれまでの愚かさを情ひとつで取り繕うには、その情は薄過ぎた。丸二日かかった難産の末に産まれた、保育器に入った小さな赤子を見て、母となった女のやつれきった顔を見て、真っ先に沸き上がった感情は得体の知れないものに遭ったような戸惑いだった。

それでも、子供が生まれてしばらくは確かに、何か特別なものを得たというこれまでの人生になかった充足を感じる日々が続いた。いや、周囲に流されるまま、ひたすら目の前の生活のために働かざるを得ない環境で、立ち止まって考えるということ自体出来ずにいた。他の選択肢などはなからなかったかのように、自分の目の前には細い道がひとつ続いていた。周りには何もない、細いその道には妻と息子がいる。それでいいとする自分がいる。工事現場で昼夜問わず働きながら、息子が小学生になる頃にはローンを組んで大安寺あたりの安い土地に家を建て、庭でキャッチボールをするという平凡な青写真を描いたりした。けれどもその息子はキャッチボールどころか、会話のキャッチボールすらまともに出来ない子供になっていた。幼児期、単に聞き分けがない、我が儘な性格だと思い、張りぼての父親像を掲げて厳しく接してきたせいか、気付けば息子は椋二と目を合わせることすらせず、近付く際、話し掛ける際は一定の距離で決まった言葉を掛けないとパニックを起こすようになった。医者やカウンセラーの指導を妻伝手に聞くも、椋二の対処のまずさは息子だけでなく妻の不信も買い、ただ金を運ぶだけとなった存在に対して、息子への理解に最大限心を砕いてきた妻はいつしか、泣いてばかりの弱い女から強大な母親というものに変貌していた。

母親でしかなくなった女と、父親になり損なった男が同じ空間で生きられるはずはなく、息子が小学校の支援学級に入ってから一年後、離婚をした。しばらくは三人で暮らしていた大和郡山市に近い田原本町の単身者アパートで生活していたが、ある日の舗装工事の作業中、ふと目にした、見慣れたはずの低く平坦な山並みの風景に言い知れぬ絶望を覚え、どこか遠く、これと全く違う景色の場所へ行きたい思いに駆られ、その思いは数年前から発症していた後頭神経痛の症状を悪化させ、日増しに膨れ上がり、暴発したのだった。

別れた妻は何も言って寄こさなかった。自分が世界のどこに居ようと、毎月二十五日に養育費が振り込まれてさえいれば問題はないのだろう。そして椋二は、毎月二十五日に妻名義の口座に十万円振り込むという行為ひとつを守り続けることで、夫にも父親にも、息子にも孫にも満たない、何者にもなれなかった自分の空っぽの生を繋いでいた。

今更だと思った。どの口が子供を引き取りたいなどと言うのか。ただ、一年前、離婚して以来連絡してくることのなかった元妻から電話で、息子が入院することになった、もう私一人では限界だということを告げられ、月の養育費五万の上乗せと、まとまった額の金を要求された時、金の工面の他に椋二の脳裏にはなぜかかつての夢想染みた家族の青写真が幻のように蘇り、自分の空洞をすり抜けていった。その時の幻を追い続けるように、ぽっかり空いた穴を埋めるように、闇雲に金策に奔走し、ケチ臭い犯罪に手を染めることも厭わなくなった時点で、結局全ては自己満足でしかなく、分かり切った結末に虚しさが募るだけだった。その虚しさと、未だ消えぬ幻の間で揺れていた椋二の前に、あの少年は強烈な稲光を放って現れた。あの姿、形、存在の全てが完璧に整った少年の、迸る激情に触れた時、はじめて椋二は生きているものに出会った気がした。

昨夜、少年がシャワーを浴びている間、玄関の三畳間に置かれたボディバッグを居間へ移した時、ナイロンの表面の一部を鋭利なかたちのものが押し上げていることに気付き、少し躊躇ったのち中を開けて見た。椋二は内ポケットに入れられた、十五センチほどの刃渡りの小出刃包丁を抜き、カバーを取って蛍光灯の下に照らして見た。ペティナイフと言われる類で、切っ先が細く鋭い。おそらく一度も使われたことはないだろう、研ぎ澄まされた鏡のような美しい刃に〈佐織〉と刻印されたそれは、まさに彼そのもののようだった。刹那、椋二は彼にこれを突き刺されて死ぬ妄想に身を委ね、それも悪くはない気がして笑いが込み上げてきた。そこまでの感情を向けられていたことに悦びすら覚える自分はどうかしている。彼はずっと、自分を殺す機会を伺っていたのか。白く光る刃に、歪んだ自分の顔が映っていた。

なんと醜悪な顔をしているのだろうと思った。そして、これと似通った顔をしていたはずの子供の、膝を抱え小さく丸まった姿を呼び起こした。魚が好きで、赤い色が好き。熊のプリントが入った赤いトレーナーばかり着て、赤いマジックペンで手を真っ赤に染めていた、あの子は今、どんな少年になっているだろう。たとえ目を合わせてはくれなくとも、全身で拒絶されようとも、自分はもう、目を背けたりはしない、してはならないのだと思った。

椋二は首筋から肩に重いものを感じて本を閉じ、座椅子にもたれ掛かった。日当たりの悪い居間は昼間から電気がいる。薄汚い色合いの部屋の中で浮き上がる、真新しい蛍光灯の白。その下で見た、緑がかった茶色の髪と、薄茶色の瞳を、椋二は思い浮かべた。若葉に煌めく陽の光のような、柔らかい春の土のような、瞳。彼の心をそのままに映し出す瞳。あんなものに見つめられれば、ましてや感情の色を持って向けられたら、抗うことなど出来ないように思われた。出会ってたった数週間の自分がこうだ、長く一緒に居る者は一体どうなるのだろう。椋二は佐織の息子への愛情を執着の文字に置き換え、代わりにされたのはこの自分のほうであったのかと思い至った。

夜、昨夜の大雨で出来た大きな水溜まりの残る路地を諦め、塀の裏の駐車場で投げ込みなどを行った。酒井の爺さんの口利きにより、時間限定で持ち主の許可は取っていた。雑木林を渡る風の音と、ミットを叩くボールの音だけが湿り気の残る砂利の駐車場一帯に響いていた。はじめの頃より球は一層鋭く、重くなっていた。以前彼自身が教えてくれたコントロール難だという弱みは、正直椋二には微々たるものに感じられたが、その精度も確実に上がっているようだった。少年野球の場合、変化球の使用はないため、結局はどれだけストライクゾーンに安定して投げられるかが大事になる。その上で球速が九十~百キロあれば上々だが、彼の場合、百二十キロ近い速球を買われて投手に抜擢されたが、その時々によってコントロールが安定せず、暴投や死四球を出し易いというタイプに入るのかもしれない。だが、それだけであの小堀がエースにするわけがないと椋二は思った。

ミットを嵌めた右手に細かい電流のような痺れが走る。椋二は、十六メートル先に立つ少年の、帽子の下の表情を見た。汗の伝う頬は僅かに緩み、眼はぎらぎらと光っていた。まるで、肉食獣だ。彼はよく覇気がない、やる気が見えないと怒られると言うが、小堀やその他のコーチ達は彼の、何を見ているのだろう。椋二はひとつ息を付き、ボールを返した。恐らくこの投球の間に見せる異常な集中力は、本番の試合でしか出せないのではないのか。本来ならどちらかと言えば負の要素である緊張感やプレッシャーを、彼はむしろ好んでいるのではないかということに椋二は気付いた。監督にとってピッチャーが本番に強いことほど有難いものはない。練習では同じような投球が出来ず、そしてこれもまた推測だが、何があろうと冷淡な能面を外さず、この大人を食ったような顔つき、態度が反感を買っているのも事実かもしれない。けれども椋二が知る限り、小堀という監督は気に入った選手ほど当たりが強く、練習だろうが何だろうが常に集中砲火を浴びせるような指導者だった。コーチャー、もしくは五・六回あたりで代走、そのままレフトに配置が常だった自分は当然、大して見向きもされなかった。代々この小堀の粘着を受けてきた者は、それを文字通り愛の鞭、期待の表れと受け取って真面目に粛々と、指揮官の望むような選手になるため、涙ぐましい努力を見せてきたのであろうが、この少年の場合はじめから彼らの、小堀の枠の外に立っているのだ。小堀は黴の生えかけた頭の中で、この未知の生き物をどう手懐けるか思案に暮れていることだろう。それはもう、自分のように、囚われているということに等しいのではないか。黙々と投げ込んでくるボールを受け取りながら、椋二の思考はいつしか、千歳の傍に居た少年に辿り着いた。確か佐織が言っていた、幼稚園からの幼馴染だと。千歳とは兄弟も同然だと。

三十球ほど投げたところで、椋二は「休憩しよう」と声を掛けた。少年はキャップを取り、軽く頭を振ると、近くの空いた車止めブロックに腰掛けた。自分の膝に頭を垂れるように俯く彼に、椋二は「大丈夫か」と尋ねた。彼は右手で持ったキャップを団扇代わりに煽り、顔を上げ、投げている時とは別人のような興醒めした表情で「大丈夫ちゃう」と返した。その答えに椋二は少し驚き、ひとつ息を吐いてから、「不安があるんか」と訊いた。椋二の言葉に、眉根を寄せた少年は「不安ていうか・・・」と言いよどみ、額に掛かる前髪を邪魔そうに払って「的を、ちゃんと見られへん」と視線を足元に落とした。

「この前の試合、入りこみ過ぎて自分がどこ見て投げてたか、途中で分からんくなって全然覚えてない。パスボール多かったんは俺のせいや。そのせいで普段せんような送球エラーとサインミスまで招いた」

「それは・・・パスボールならキャッチャーの責任やろ?」

「不安にさせるような投げ方した自分が悪い。でも、また同じこと、やりそうで」

訥々とした調子で話してはいるが、俯いたその顔は苦しげだった。伏した長い睫毛が微かに震えているのを見ながら椋二は、「キャッチャー、この前マンションにおったでかい子か?」と、隣の車止めブロックに座った。

「そんで、いつもほんまやったら自主練も一緒にやってた。でも喧嘩か何かして、やらんくなってもうて、試合でそういうぎくしゃくしたんが出てもうた。そういうことか?」

椋二は極力ゆっくり、柔らかい物言いに努めたつもりだが、少年はより険しい表情を浮かべて押し黙った。黙っているということは、だいたい合っているのだろうと思い、「別にバッテリーやからって、ずっと一緒が良いわけでもない。自主練くらい好きにしたらええと思うけど、お互い腹に何か溜めて避けてんのやったら、影響はするやろ。別に仲良うはせんでももええけど、信頼なかったら出来んのが野球やろ。お前の口ぶりやと、自分が悪いって思ってるようやが、それやったらさっさと謝ったら済むんちゃうんか」と探りを入れた。この年代の頃、下らないことで学友やチームメイトと喧嘩ばかりしていたが、恐らくそういう二・三発殴っては殴られて終わるようなものではないのだろう。案の定、少年は重そうに口を開いた。

「俺が悪い。でも、あいつは、そうは言わん。でも、ほんまはきっと、嫌なんやと思う」

「嫌って、何がや?お前がピッチャーやることか」

「それも、ひっくるめて、全部や。ずっと、今まで、俺はあいつが何やかんや構ってくるんを当たり前みたいに思ってたけど、単に小さい頃からの付き合いってだけで、あほみたいに責任感強い性格やから無理してたんかもしれん。ほんまは負担やったのに。俺は最近まで気付かんかった。自分のことばっかりで、何にも見てない。いや、見んようにしてたんや。あいつがキャプテンとか会長とかやってんのも当然やと思って、悩んでることなんかないて思い込んでた。きっと知らん間にいっぱい、傷付けてたんや。それでも、自分からよう、見放さんねん。あほみたいに優しいから」

椋二は思わぬ少年の独白に近い語りに、内心込み上げるものがあったが、平静を装った。手慰みとばかりに煙草を取り出し、ひと息吸いこんでから「そう思うてんのやったら、そう言うたらええんや。全部そのまんま。そんで、これからは変えていったらええんや。あほみたいに優しいんやったら、それであかんなんてことないやろ」と言った。

「その上で、また一緒にやろうって言うたらどうや」

少年は膝を抱いて、俯いたままじっと泥の撥ねた痕があるシューズの先を見つめていた。椋二はその姿に、自分に殺意を抱いてペティナイフを忍ばせた時もこんな風に静かに押し潰されそうな不安と闘っていたのかと想像し、初めて彼に対して申し訳なく思った。この少年はおそらく、自分がはじめに抱いた印象よりずっと、善意と優しさと、それが故の弱さを持っている。自分自身がそれを持て余しているような、扱いきれていないような不器用さが、ただ黙って俯く彼の姿に滲んでいた。その彼の手に、白球を握り続けてきた手に、凶器としての包丁を握らせたのはこれまで犯してきた数多の罪より重いのではないかと椋二は思った。

「俺もな。俺も、お前に偉そうに言える立場やないねん。ずっと、ずっと色んな人傷付けて生きてきて、自分に都合悪いことから逃げて、見たくないもん見んように目え背けて生きてきた。この歳でやっと、それに気付いたんや。お前はまだ子供やのに、誰に教えてもろうたんでもないのに、自分で気付いて、悩んで、えらいと思う。せやから、大丈夫や」

ゆっくりと顔を上げ、少年はこちらを見た。夜は更け、新月が近いのか月はまだ姿を見せず、駐車場の小さなライトと周辺の家の窓の明かりに薄ぼんやりと浮かび上がるその表情からは、どことなく愁眉が開いたように椋二には思われた。

「なあ。お前がさ。もし、お前が、俺を殺したいくらい憎んでても、それは何もおかしいことやないぞ」

椋二の言葉に、少年はその大きな眼を見開き、息を呑んだ。

「俺が悪かった。俺が、おかしいんや。せやから、お前は自分に対して、絶対に後ろ暗い思い持つな」

「何で・・・」

千歳はそう呟くと、椋二から目を逸らし、唇を噛み締め、肩で大きく息を吸って吐いた。そうして背を向けて、小刻みに震え出す彼の肩から、抑えつけるように自身を掻き抱いた腕から、強く握りしめた拳から、少しずつ力が抜けていき、代わりに腕の隙間から覗く頬に一筋の光るものが流れた。夜闇に溶け込みそうなほどのか細い清流はしかし、彼の全身からゆっくりと溢れ出し、それは空気を伝って椋二の身体にも流れ込み、椋二の中でさざ波となって静かに、臓腑を、骨を、細胞を、ひとつひとつ洗い流していった。それは冷たく澄みきった瀧の水を頂くようでもあり、清冽な川の流れを漂うようでもあり、滔々と流れる音が絶えず耳の奥で響いていた。

続く

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