「善知鳥」 九

「善知鳥(うとう)」

六月三日。走り梅雨の後の蒸し暑い晴れの日は三日ばかり続き、運動場やグラウンドの土がようやく乾いた頃、今度は梅雨本番のはじまりを告げるような、どっしりと地に根差すかのようにまっすぐ、切れ目なく降り続ける雨がその日、早朝から訪れていた。

七時四十分。寝苦しい夜の暑さにまだ身体が慣れないのか、少し顔色の冴えない寝巻き姿の佐織に見送られ、千歳はマンションのゲート前で待っていた太一と学校へ向かった。アスファルトを打ち続ける雨に、太一は「また運動会の練習、体育館やな」と、風邪の時の鼻声のような声で言い、続けて「去年まで九月やったのに、何で六月になったんやろ。児童会で問題にしたろうか。六月は修学旅行もあるし、俺らは大会もあるし、忙し過ぎるよな」と溜め息を吐いた。千歳は「ああ」とか「うん」などの生返事を繰り返し、太一はまた「翔大がさあ、就寝班、少年団のチームで組もうとか言うんやけど、俺、クラスの奴らと先に約束しててさ、したらあいつ急に切れて、勝手にしたらええやろ、とか言いよるから、俺可笑しいてさ、あいつ、三組に友達おらんのかな」などといったことを独り言のように喋り続けていた。

いつもと同じだった。焼門町の交差点を曲がり、緩やかな国道沿いの坂を上って行く。ここからは傘を差して行き交う通勤、通学の人波のため一列となって沿道を歩く。いつもと同じだと思い、千歳はビニール傘越しの、自分より少し高い位置にある、伸びて寝癖が付くようになった頭を眺め、そして、まるで雑踏に飲まれはじめたことに安堵したような力の抜けた肩や背中を見つめ、いつもと同じではないことを思い知った。雨滴の滲むビニール傘を通して見るその後ろ姿は遠く、じめじめとした暑さにも拘わらず、千歳は薄らと寒気のようなものを感じていた。太一は時折、思い出したかのように傘を揺らして軽く振り返り、「今日さ、室内使われへんって父さん言うてたわ。多分他のチームに先取られたみたいで。雨、ほんまいらんよなあ。明日、大丈夫やろか。せっかくホームでやれんのに」と言った。

「じゃあ、今日は練習なしか」

「うん。あ、父さん言うてたけど、今日は軽くバット振るだけにしとけって」

転害門の前に着き、横断歩道を渡る。学校はもうすぐだった。

「明日も曇りか雨マークやったのにさ、父さん、明日は絶対晴れやとか言いよる。理由がさ、俺は晴れ男やから、やで。意味分らん」

「でもおじさん、晴れ男っぽいな。お前もやけど」

「そうか?でも・・・」

太一のビニール傘が一瞬大きく揺れた。

「でも、なんでもええから晴れてほしいな。うちのチーム、なんか雨に弱いし。梅雨っていつまであんねんやろ。修学旅行ん時終わってんのかな。そういや、あれ、ナップザック、どこまでいった?俺、ミシンなんか苦手やわ。どうしてもいがむねん」

紺色の傘を差して立つ教頭の姿が校門前に見えた。校舎と同じく景観に配慮された寺院風の瓦屋根の門に、赤や黄、青、黒、花柄、水玉模様などの傘が次々と吸い込まれていくのを眺めながら、千歳は、修学旅行で使用するナップザックの制作についてああだこうだ言う太一の話を切った。

「せやったら、放課後残ってやれよ。俺、教えるから」

校門まであと三メートルのところで、太一は「え?」と振り返り立ち止まった。出来はじめのニキビや、かさついたニキビ痕で赤らむ頬に雨雫が付いていた。

「授業内に終わりそうやなかったら、残ってやってええって聞いたよ。今日練習ないし、ちょうどええやろ」

「せやけど、お前まで残るんか」

「俺はもう、終わったから。やり方大体分かるし」

六年生の何人かが二人に、「おーす」「はよー」と声を掛け通り過ぎていった。太一は彼らにやや遅れて「お、おう、おはよう」と返し、千歳に背中を向けたまま「分かった」と呟き、シャツの袖で顔を拭った。

午前中の授業をほぼ上の空で過ごした千歳は、給食の時間も昼の中休みも同じような有様であったが、日頃の低空飛行を維持する態度とそう変わるわけではなく、気に留める者はいなかった。拓磨の読書は月曜日に読んでいた小説の下巻に入っていた。四時間目の体育で行なった騎馬戦の組分けとその練習の際、騎手役の男子の手が、揉み合いの反動で土台の正面を担う拓磨の顔を掠めたため、拓磨は左頬に引っ掻き傷を作っていた。その時、拓磨の頬を引っ掻いた男子の帽子を取ったのは千歳だった。千歳はなんとなく自分のせいのように思い、着替えの時間に「バンドエイド貼る?」と訊いたが、憮然とした表情で「いらん」と返された。拓磨は傷を付けられたことなどより、無闇矢鱈に走り回されたことに疲弊し、不機嫌だったのであろうが、千歳は千歳で、毎年苦手な騎馬戦の騎手をさせられてうんざりしていた。走ったり出来ない上に、誰かと何かを取り合うという最も苦手な手合いのことを自分がしなければ勝負にならない。他人との密着度が高いところも苦手の理由のひとつだった。練習だというのに闘志剥き出しで向かってくる翔大を相手にしている間に、他の騎馬に囲まれ、あちこちから伸びてくる手に揉みくちゃにされ、左右の騎馬役が崩れ、千歳は正面の騎馬役をしていた太一の背中に圧し掛かる始末となったのだった。

中休みに入ってしばらくすると、隣のクラスの凛花がやって来た。体育の時括っていた髪は、もう綺麗に下ろされていた。凛花は教室の後方、窓枠にもたれて試合動画を観ていた千歳の前に立ち、「千歳君。今日練習ないんでしょ」と言った。凛花は「何観てるん?」と、千歳の持っていたスマートフォンの画面を覗き込み、さっと、後ろの拓磨の机に腰を掛けた。さすがに驚いて本から目を離す拓磨の様子が、凛花の身体の向こうに見えた。

「先週観れなかった映画、観よ。パパがねえ、あ、ママもやけど、また千歳君に来て欲しい言うてたよ。今野球で忙しいって私、言うてるんやけどね。そうそう、今度の試合、パパ達も応援に行くって。もうパパ、千歳君千歳君うるさくって」

「今日も無理や」

千歳は彼女の太ももに当たっていた腕を下ろし、身をずらして間を取った。凛花は「え?」と分かり易く表情を曇らせ「何で?室内もないんでしょ。さっき翔に聞いたよ」と声の調子を落として言った。

「太一と、約束してる」

凛花がさっと顔色を変えたことを千歳は見逃さなかった。彼女はもう一度「何で」と呟き、机から滑るように静かに降りた。

「・・・それ、太一君から誘ったん?」

凛花はそう言うと、千歳の膝に手を付き、身を屈めた。彼女の髪からいつもの甘い香りが漂ってきた。

「別にどっちでもええやろ」

千歳の突き放すような言い方に、凛花は押し黙り、彼女の兎のような大きな黒目に映る自分の顔が微かに揺れていた。千歳が溜め息を押し殺し、「なあ。お前さ、何か俺に隠してへんか?」と言えば、凛花は唇の片端だけ上げて「え?何?私が?」と笑った。

「月曜ほんまは何があった?あいつと」

「何?あいつって?何言うてるん、千歳君」

「太一のこと、まだ許してへんから、そうやってあいつのこと気にするんか?」

凛花はふらっと立ち上がり、拓磨の机の角に寄り掛かった。長い髪を耳の後ろに掛け、窓の外に目をやりながら、「もう、謝ってもらったんやし、何も気になんかしてへんよ。ただ、今日くらい私と居ってくれてもって思ったの。映画、この前千歳君のせいで観れんくなったのに。太一君とか、別に関係ないわ」と、淡々とした口調で言った。

「・・・じゃあ、用事済んだら、そっち行くから。そんでええやろ」

他に言いたいことはあったが、先週の映画の件を持ち出されると、負い目のある千歳は引き下がるしかなかった。凛花はその言葉に納得したのか、再び口角を上げて「ほんと?良かった。ありがとう」とほっとしたように言い、千歳の股の辺りに手を置いて身を屈め、耳元で「じゃあ、家で待ってるね」と囁き、立ち去って行った。長い髪を靡かせ颯壮と歩く凛花の後ろ姿を眺め、まだ残るオレンジベルガモットの香りに自分達の関係の歪さを突き付けられた気分になり、千歳は深い溜め息を吐いて項垂れた。

「こっちが溜め息吐きたいわ」

今度は千歳に寄り掛かられ、大事な読書スペースを侵害され続けた拓磨が、そう小さく呟いた。

家庭科室の鍵を預かり、千歳は先に入って、掃除当番の太一を待っていた。雨は止み、灰色の雲間から微かに薄日が差していた。千歳は窓枠にもたれ、ぬかるんだ校庭を長靴で駆け回る一・二年生達を見ていた。水溜まりの上をケンケンパで越えようとする子、ざぶざぶと入り、足を振り下ろして友達に飛沫をかけようとする子、傘の先で何だかよく分からない絵や文字を描いて笑い合っている子供達の姿に、かつてそうやって同じようにじゃれ合っていた自分達の姿を重ねた。

「千歳」

半分開け放してあった扉の方から太一の声がして、千歳は振り返った。廊下に立ったまま中へ入ろうとしない様子の太一に、千歳は「なんや、入れよ」と扉に近付いた。太一は中を覗くように見ると、「いや、やっぱり、俺いいって。授業中になんとかするし。それに、今日、児童会の配布資料まとめんなあかんから、悪いけど、先帰ってくれ」と言った。

「それ、昨日も言うてたけど」

「昨日だけでは終わらんかったんや、じゃあな」

そう言い終える間もなく背を向けた太一の腕を千歳は掴み、家庭科室の中に引っ張り込むと、扉を強めに閉めた。太一は驚いて「なんや」と声を上げ、千歳を見た。

「嘘、言うなや。堀口先生、そんな資料お前に頼んでない言うてたぞ」

太一の目が見開かれ、頬がひくりと動いた。それを間近で見た千歳は、はじめどう切り出すか、上手く落ち着いて話し合えるかなどと数分前に考えていたことは見事に消し飛び、

「なあ、お前、最近おかしいぞ、俺のことずっと避けてるやろ、月曜やっぱり何があったんや、何を隠してるんや」と口走っていた。太一は千歳の手を振り払い、太い眉をぐっと寄せて睨み「何言うてるんやお前。避けてなんか・・・何も隠してなんか」と首を振った。

「嘘や。あいつに何か言われたんか?それで、俺のこと、もう、嫌になったんやろ?」

千歳はもう一度太一の腕を掴んで言った。太一は更に驚愕と困惑の表情を浮かべ、額に大粒の汗を掻いていた。

「なあ、太一、聞いてくれ。俺は、今までずっと、お前に頼ってばっかりで、助けられんの当たり前みたいに思ってて、でも俺はお前が何かで悩んだりしてても気付きもせんかった。自分のことしか見てへんかった。お前が、全部俺のために言うてんのも分かってて聞き流して・・・そんな、そんな奴、嫌になんの当然や。でもお前は、はっきりそんなん言われんくて、ずっと無理さして、でも、でも・・・」

言葉がこれ以上、出てきそうになかった。太一の口から嘘と分かる文言が出た時から、心臓が小刻みに震え出すような寒気に飲まれそうになった。もう、何を言えばいいか分からない。何のためにここへ呼んだのか分からない。真っ白になった頭で千歳はただ、掴んだ腕から力が抜けていることに気付き、深呼吸と共にゆっくりと放していった。

「・・・これからは、俺は、今度はお前を助けられるように、ちょっとでも、支えになれるように、ちゃんと、するから、せやから、ほんまのこと言うてくれ。頼む」

そう言い終えると千歳は唇を噛み俯いた。支離滅裂だと思った。思うこと全部ぶつけたらいいとあの男は言っていたが、心の半分も相手に伝わっていないように思った。勉強が出来る、運動が出来ると幼い頃から持て囃されてきたが、自分はこんな簡単なことも出来ないのだ。

「俺が、一番いらんのは、お前が何か俺のせいで自分を曲げて、一人で抱えてんのが、それが一番嫌なんや。俺が嫌いやったらそれでええから、もう、無理せんでええから。お前らしいおってくれ」

結局自分が必死に言い募ろうとしていることは全て自分のためなのだ。千歳が床の隅に置いていたランドセルを取ろうと身を屈めた時、「千歳」と太一は言った。

「無理って何や、お前が嫌いって、誰がそんなこと言うた」

「じゃあ、何で避ける?嘘まで吐いて」

「それは・・・」

「あれも、嘘なんやろ。あいつが、凛花がいじめやってんの勘違いしたっていうのも」

そしてその嘘に、自分が関わっている。千歳は目の前の太一の顔をつぶさに見つめて、それを確信した。

「ほんまはいじめてて、お前は俺のためにあいつに止めさせようとした。でもあいつが泣いたから、騒ぎになって、先生にほんまのこと言うたら結局あいつだけやなく、俺も傷つくって思った・・・からか?」

いつも言い出したら聞かない性格だった。こうだと思えば意地でも貫く。馬鹿が付くほど真面目で、頑固で、融通が利かなくて、いつだってまっすぐ人の目を見て話し、自信に溢れていた。明るく闊達で、自然とその周りには人が集まった。その太一に、くだらない嘘を吐かせる自分が千歳は何より嫌だった。

「お前は何ひとつ悪いことないのに、正しいのに、謝って、そんな、そんなおかしい話ないやろ。全部言うたらええんや、俺も、凛花も、多分頭おかしいねん・・・」

本当に狂っているのだと思った。千歳は右手で顔を覆い、拾いかけたランドセルの持ち手を掴んだ。もう最初に期待していた、この先の展望もどうでもよくなり、ただ、太一がこれまで通り太一であってくれればいいと思った。そして千歳のその願いは、太一本人によって砕かれた。

「何ひとつ悪うない、か・・・」

扉にもたれて立ち尽くしていた太一は、そう呟くと、は、は、は、と乾いた笑い声を出し、ずるずると崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

「お前、やっぱり、全然、何も分かってへんねんな」

行く手を塞ぐように扉の前で片足を立てて座り込んだ太一は、驚きに固まる千歳から目を逸らし、その横にある調理台の側面のステンレス板に視線を漂わせた。

「・・・俺が、俺が最初に脅したんや。佐久間をこの隣の、児童会室呼んで。いじめやってんの先生や親にばらすって。口でそんなん言うてもまた誤魔化されるから、証拠見せて」

「証拠?」

思いもよらない言葉を耳にし、千歳は慌てて聞き返した。太一は苦々しい顔つきで千歳を見つめると、ふっと笑って、「動画撮ったんや。佐久間が女子何人か引き連れてトイレで奥田、いじめてんの、この前、やっと上手いこと撮れて・・・これでいけると思った」と、まるでその時の喜びが蘇ったように目をぎらつかせた。千歳は初めて見る太一の暗い笑みに、息をするのも忘れそうになり、喉の奥から何か出そうな息苦しさを覚えた。

「でも、あかんかった。この動画流されたくなかったら、お前と別れろって言うたら、あいつ・・笑い出して、そんな隠し撮りとか汚い真似するんやって言うて、馬鹿にして、そんで、自分のスマホ出してきて、お前が映ってる写真とか動画見せてきて」

「俺の、写真・・・?」

太一の眼は一転して色をなくし、焦点すら合っていない虚ろな眼差しとなった。

「ベッド、みたいなところで、裸で寝てるお前とか、佐久間と映ってるのとか、血が、シーツにいっぱい付いてるのとか、何枚も見せてきて、これ、もし親や先生が見たら、ネットにでも流したらどうなると思うって」

太一は関節の太い、傷だらけの指で額を擦り合わせ、自分の膝に力なく頭を預けた。

「自分が一言、レイプされたって言えば、お前は終わるって。もう、この町にはおられんくなる、野球も一緒に出来んくなる、それでもいいのかって言うて、それで、俺は」

尻すぼみに小さくなっていく太一の声に、千歳は立っていられなくなり、床に膝を着いた。整理のつかない頭の中に、ペールピンクのボックスシーツに点々と付いた鮮血が浮かんでは消えた。

「あいつは、別にお前を脅すためとかで撮ったんやないって、ただ自分が見たいからって、でも、俺が動画消したら自分も消すって言うから、その場で消し合った。何も、なかったことにしようって」

「・・・待てよ、それやったら、何で、お前一人悪いことになった?」

千歳は訳の分からなくなった頭で、ただその一点、涌き上がった疑問に縋るように言葉を思うまま被せた。

「それで、何で、あんな騒ぎに?何で、あいつは泣いてた?今も、今もそうや、ずっと何か怯えてるみたいに・・・お前も、そうや、何か怯えて・・・それに、大体何でそんな、おかしいやろ、動画とか、何で、そこまでして」

千歳は自分の問い詰めるその先の、行き着いてはならない仄かな予感に震えた。それでも、これまで一度も見たことのない、大きい身体を丸めて情けなく項垂れる太一の姿に、目を背けることなど出来なかった。

「なあ。何でや・・・」

太一は肩を震わせ、ゆっくり顔を上げると、目の前の千歳ではなくその向こう、西日の差し込み始めた窓辺へ目をやった。そして深く息を吸うと、扉に頭を付けて諦めたように小さく笑った。

「俺が、ほんまにショックやったんは、あいつにずっと、知られてたことや」

怪訝そうな表情を深める千歳に、太一はさらに目を細めた。この苦しいような哀しいような淋しい笑みを、千歳は知っていた。

「分からんか、千歳」

息が出来ないと思った。心臓が壊れたように痙攣している。喉の奥から込み上げてくる異物は、壊れた心臓か、胸の底に溜まった綿毛のような棘の塊りか。

「どうしても、嫌やった。別に佐久間がどうとかやない。誰でも嫌や。それを、あいつは知ってた。そんで俺のこと、かわいそうやって、笑ったんや。それだけやったら我慢してたけど、あいつ、お前のこと・・・ちょっとおかしいって、普段あんなんやけど、二人の時は人が変わるって言うて、俺に、そういうの知らんやろ、もっと教えてあげるって言うて、それで、何かもう、訳分からんくなって、気付いたら渡り廊下まで追いかけて、腕を掴んで、多分俺、殴ろうとして追いかけてたんや」

ぐっと握り締められた太一の拳の、浮き上がった太い血管と骨を見つめ、渡り廊下の真ん中で凛花に掴みかかり、彼女の顔を何度も殴打する太一を想像し、千歳は口元を手で覆って呻きのような溜め息を吐いた。

「腕か、肩を掴んで、引き倒した時、あいつの声に、何人かが気付いて上がってきて、その中に堀口先生も居て、先生に、何であんなことしたんやって訊かれた時、思ったんや。ほんまのことなんか、言える訳もない。せやから、全部俺が悪いことにしようって。変な勘違いして、責めて、泣かしたことにしようって。実際あいつほんまに泣いてたし・・・」

千歳は言葉を失ったまま、自嘲的な笑みを浮かべる太一を見つめた。毎日のように突き合わせてきた、見飽きるほど見てきた顔と同じ目、鼻、口をしているのに、今目の前に居る人間は一体誰だろう。自分の顔より馴染んだその顔を穴が開くほど凝視し、千歳は自分達が行き着いてはいけなかったところに来てしまったことを知った。

「佐久間は後で、じゃあこうしようって、自分達の邪魔せんかったら、自分もずっと黙ってる、今まで通りにしたらいいって、言うてきた。俺も、それで、ええと思った。俺は、もう、お前がおったらそれで・・・」

どうしようもない息苦しさと心臓の震えに、浅い呼吸を繰り返す千歳とは逆に、太一は徐々に険の取れた穏やかな表情となっていった。

「なあ。千歳。これが俺や。引いたやろ?気持ち悪いやろ?お前が見てきた俺は、俺やない・・・いや、もう自分でも何が本当の自分か分からん」

閉め切った家庭科室は蒸し暑かった。汗か涙か分からない雫が、頬を伝い、古傷だらけの床に落ちて染みを作った。千歳は膝立ちのまま、手を床に付き、扉にもたれる太一へにじり寄った。自分の中で嵐のように荒れ狂うなにものかに突き動かされ、震える手でゆっくりと、スラックスの上からでも分かるその固く太い膝の辺りに触れた。太一はびくりと身体を微動させると、全身に緊張を走らせ、身構えた。嗅ぎ慣れた汗と、皮脂の匂いが鼻先を掠める。膝蓋骨から上へ、大腿骨を辿るように、その固い筋肉に覆われた太腿まで指を這わせた時、放課後のチャイムが静まり返る家庭科室を切り裂くように鳴り響き、その音にぷつりと糸が切れたように千歳の手は床へと落ちた。声にならない呟きが微かな空気となって洩れ、それに応えるように、息のかかる距離からふっと柔らかい振動が伝わってきた。数秒の間の静寂の後、身体を起こしてその顔を見上げた時、千歳は自分が洩らした言葉にようやく気付き、茫然とした。

「千歳。明日、勝とうな、絶対」

そう口にする太一はいつもと同じ落ち着いた、優しい笑みを浮かべていた。立ち上がって出て行こうとするその背中を、千歳は座り込んだまま見送った。

ごめん、と、言ったのだ。自分は。あれほど震え、暴れ回っていた心臓が、死に絶えたように静かだった。これは当然の報いだと、千歳は大きな虚脱感に落とされながら思った。

まるで配線の切れたような重い手足を動かして、千歳は転害門町の交差点から国道沿いの坂を上り、佐保川の傍にある凛花の家の前まで来た。隣の家の庭ではこの前と同じような位置でバットを振る翔大の姿があった。翔大はまた舌打ちをした後、「今日は負けたけど、本番では俺が勝つからな!」と青色の光沢が綺麗なミズノのビヨンドマックスをこちらに向けて突き付けた。千歳は今日の騎馬戦の記憶など飛んでいたので、翔大の言う意味が分からず無視をした。その態度に切れた翔大が喚いている間に、扉が開き、凛花があっさりとした白いノースリーブのシャツワンピース姿で現れた。うるさそうに翔大を見やり、あからさまに顔を背けると、千歳を見て微笑んだ。

「遅かったね、千歳君。中、入って」

白いアーチ型の扉にさっと凛花は身を入れ、千歳の手を取って引き入れた。内扉の鍵を掛け、凛花はキリム柄の玄関マットに客用のスリッパを置くと、さっさと自分用の猫耳の付いたスリッパを突っ掛けて階段を上って行った。

凛花の部屋に入るとすぐ、馴染みのあるモルトンブラウンのアロマデュフューザーの香りが鼻を突いた。千歳は、佐織がモルトンブラウンのオレンジベルガモットのコスメにはまり、ある日家の玄関と居間に同じラインのデュフューザーを置いて「何か目の前がオレンジ畑になったみたいやね」と言って笑った時のことを思い出した。

「デュフューザー、日曜日パパに買ってもらったの。心斎橋の大丸で。あと、このワンピースも。これ、佐織ちゃんのお店ので、最初パパ値段見て渋ってたけど、佐織ちゃんが来て色々勧めてくれたら、パパもう乗り気になっちゃって」

丸いローテーブルの上にはファッション誌とスマートフォン、映画のDⅤDがあった。四〇インチのテレビが置かれた白いボードの横に鏡台があり、そこには佐織が愛用するモルトンブラウンのスキンケア用品が並んでいた。そこには二月の凛花の誕生日に自分があげた、オレンジベルガモットのボディクリームもあった。凛花はペールピンクで統一されたベッドの上の花柄のクッションを二つ取ると、未だドアの前で突っ立つ千歳を訝しげに振り返り、「どうしたん、千歳君」と言ってベッドとテーブルの間に座った。

「佐織ちゃんね、もう店で着ない服、私にくれるって。色々溜まってるから、今度休みの日おいでって言うてくれたんよ。あと、使わないバッグとか、ネイルも」

「凛花」

学校を出て坂を駆け上がる時には確かにあった、怒りや憎しみのようなどす黒い気持ちが、佐織ちゃん、佐織ちゃんと呪文のように繰り返す凛花の言葉に堰き止められ、歯止めを利かせていた。その一方で、どうしようもない苛立ちと、虚しさを堪えるのに必死だった。今、自分がどんなひどい顔をしているのか、彼女には見えていないのか。それとも、やっぱり自分はこんな時でも何でもない顔をしているというのか?

「もう、無理や。別れよう。さっき、聞いた、太一から・・・」

凛花の兎のような大きな黒目がじっと千歳を見ていた。泣き出すかと思ったのは一瞬のことで、彼女は大きく息を吐くと、「太一君って男の癖におしゃべりなんやね」と鼻で笑うように言い、手にしていたリモコンをテーブルの上に放った。

「それで?太一君がどう言うたんか知らんけど、千歳君は私が悪いって思ったん?太一君の言うこと信じて?言うとくけど、先に私を脅してきたんは向こうやし、私はそれに対して守っただけやわ」

「守った?何をや?自分をか?」

「そう、思うんやったらそれで、ええよ。でも奥田の奴ね、莉子のお腹、いきなり殴ってきたんよ。先生に言うたって、どうせ病気のせいって言われて終わり!せやから、私が教えてやったの、女の子の身体どついたらどうなるか・・・確かに私も汚いかもしれんけど、太一君だって同じやわ。ううん、私よりずっと質悪いわ。私は別に良い人間に見られたいなんて思ってへんけど、あの人は真面目ぶって、良い人ぶって、ただの偽善者やわ」

「止めろ!太一はそんな奴やない、俺の、俺のせいで・・・なあ、お前何を言うたんや?何言うてあいつ、あんな怒らせたんや?傷付けたんや!」

千歳は後ろ手にドアを思いっきり殴った。初めて目にする千歳の激昂に、凛花はその細い身体を微かに震わせたが、目を逸らすことなく、むしろ挑むように見つめ返してきた。

「聞いてないの?ふうん。別に大したこと言うてないよ。太一君だって知りたいやろうし」

「・・・何を」

「千歳君って、いつもはめっちゃクールやのに、セックスの時すっごい熱くて激しいとか、女子になんか興味ないって顔して、実はやらしいこと大好きで、生理の時嫌がっても止めてくれんかった、とか?あとは」

「もういい。分かった」

米噛みの辺りに疼くような痛みが走った。千歳はこれ以上ここに居れば、自分が彼女に何をするか分からなくなりそうだった。もう、狂いそうだ。部屋を出て、階段を駆け下り、スニーカーに足を入れると、後ろから追いかけてきた凛花があと二・三段の所で足を踏み外し、玄関のフロアに両手を付いて倒れた。

「待って!千歳君!」

長い髪を乱し、凛花は床に這ったまま叫んだ。膝を打ったのかもしれない。千歳は行き掛けていた足を止め、しばらくの間の後、スニーカーを脱ぐと、凛花を助け起こし、階段に座らせて膝を見た。右だけ真っ赤になってはいたが傷はなかった。

「冷やしとけ」

そう言って立ち上がろうとした千歳の腕を掴み、凛花は「待って。何で、何で訊いてくれへんの?」と泣き出した。

「何をや?もう、頼むから、止めよう」

「私が何で太一君にあんなこと言うたか、何で、写真見せたか、ねえ、何でやと思う、千歳君、分からんの?」

凛花はその細い腕を千歳の腰に回し、抱き付いたまま嗚咽した。千歳は西日の射し込む家庭科室で太一が見せた、苦しいような哀しいような、淋しい笑みを思い出し、もう一度胸を掻き毟られる痛みに眉を顰め、そして、鉛のように重い腕を上げて震える背中をゆっくりと抱いた。

「分からん、俺には、何にも・・・」

夕方の六時過ぎ、帰宅したマンションの部屋の扉に鍵が掛けられておらず、千歳は佐織が締め忘れたのかと思いながら扉を開けた。感知ライトが点き、千歳は玄関の三和土に見慣れない黒のスポーツサンダルを見つけ、既視感を覚えたが、初めて経験する頭痛に喘ぐ脳味噌は思考を一時止めていた。ランドセルを玄関ホールに投げ捨て、廊下の電気を点けた。廊下にはサーモンピンクの薄いカーディガンや白いサテンのワンピース、黒のサッシュベルト、ローズピンクのブラジャーやグッチのバッグなどが点々と落ちていた。千歳はそれらをひとつずつ拾い上げていき、暗いリビングのガラス戸を静かに開けた。

カーテンを閉め切り、灯りの落としたリビングは、外よりずっと暗く、じっとりと蒸し暑かった。大きなカウチソファの上で、佐織がキャミソールとホットパンツ姿で横向きになって寝ていた。千歳が電気を点けると、目を薄らと開き、ゆっくりと起き上がって長い髪を鬱陶しそうに後ろへ流した。

「ちーちゃん、おかえり。あ、ごめん、エアコンも付けんと・・・あ、それも・・・その辺脱ぎ散らかしたまんまやったわ」

佐織はエアコンのリモコンボタンを押すと、「今何時?あーもうこんな時間?結構、寝てたんやね」と胸元の辺りを擦って言った。

「今日、遅番とちゃうの」

「うん、でも気分悪くて早退させてもらった。ちーちゃん、今日おばあちゃんとこ行かんの?ご飯何も用意してへんよ。何か頼む?」

「いい。食欲ない」

「え?どうしたん?大丈夫?」

段階的に明るくなっていく白熱灯の下、千歳は佐織のメイクのやや崩れた、青白い、頬のこけた顔を見つめ、「大丈夫」と言った。剥き出しの腕の細さに、胸元を擦る手指の細さに、千歳は言いようのない不安を感じた。

「ほんまに?今からおじいちゃんに迎えに来てもらう?」

「いいって。それより、しんどいんやろ、俺のことはええから、寝とけよ」

千歳はリビングの隣の洋室にあるクローゼットに佐織の服やバッグなどの小物を仕舞うと、カッターシャツと靴下を脱ぎ、それをブラジャーと一緒にまとめて持ち、洗面所の方へ向かった。

「ちーちゃん」

リビングを横切る時、再びソファに横になっていた佐織が上半身裸の千歳を見上げて言った。

「ちーちゃん、ママ、赤ちゃん出来ちゃった」

手から、カッターシャツと靴下とブラジャーが滑り落ちていった。

「なんか最近気持ち悪いなあって思ってたん。あんま食べられへんし。急に暑くなってきたからやと思ってたら、あーそういや生理ないなあって気付いて。で、今日帰りに駅前の産婦人科で診てもらったら、七週目やった。あー何か、口の中気持悪い」

鳩尾の辺りを忙しなく擦る佐織の、伸びた貝殻の爪を見つめ、千歳は鈍い痛みの続く頭で必死に彼女の言葉を拾った。七週目?

「それで、ママ、安定期入るまで、お仕事休もう思って。これからセールの繁忙期やのに、マネージャーには言いにくいけど、もしかしたら、サブに戻されるかもしれんけど、でも、ママ、前のことあるから、やっぱり怖あて」

「父親は」

「え?」

「誰や、相手」

声が、震えていた。佐織は鳩尾を擦る手を止め、不思議そうに千歳を見つめ、「誰って、パパに決まってるやん」と笑った。パパ?新たな意味不明の単語の登場に、完全に脳味噌の回路は断ち切られ、千歳はカウンターキッチンのチェアに寄り掛かった。

「楽しみやね。ちーちゃんの弟か、妹。今度は無事に生まれてほしいなあ。そんで、ちーちゃんそっくりな、ちーちゃんみたいな子がいいな。そう、それで、パパにお昼間、電話したら、じゃあもっと広い家探そっかって。何か前々からね、また一緒に暮らすこと、考えてたみたいで、良い機会やから、四人で暮らせる家、探すって。ママが安定期に入ったら、引っ越そうね」

千歳は佐織の言う言葉が全く理解出来なかった。四人で暮らせる家とは何だ。その家の一体どこに自分は居るのだろうと千歳はぼんやり思った。

「あ、引っ越す言うても、校区内で探してもらうから、安心してね。今より駅からは遠くなるかもやけど。中学も皆と一緒がいいもんね。たいちゃんとは、ずうっと一緒やし。あと、凛花ちゃんも、野球の仲間も沢山おるし。そうや、明日、仕事休めたら、ちーちゃんの試合、観に行こうかな。明日って、坂のとこやんね?ちょっとだけやったら行けるかも。ずっと、観に行かれへんかったし・・・ちーちゃん」

佐織は千歳の方にすっと腕を伸ばし、手招きをした。きらきらと光る貝殻の爪を重そうに揺らす細い指先に、千歳は吸い寄せられるように膝を着き、ソファまでいざった。佐織は千歳の首に触れ、もう一方の手で頬をゆっくりと撫でると優しく微笑んだ。

「大丈夫やで、ちーちゃん。赤ちゃん生まれても、ママはちーちゃんが一番やから」

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