「善知鳥」

「善知鳥(うとう)」

二〇一六年五月十七日

生温い風が、無遠慮に汗の乾いた肌の上を撫でていった。なだらかな坂道の街路樹を滑るようにすり抜けていく風は、緑の蒸れた匂い、雨臭いような湿り気を鼻腔に残す。次々、通り過ぎていく木々のほうに目をやり、伊槻千歳いつきちとせは掌のボールを鼻先に近付けた。深く息を吸い、激しく上下に動く背中にもたれ掛かる。青空を覆い隠す勢いの雲がゆっくりと伸びていくのを眺め、千歳は目を閉じた。もたれ掛かった、汗で濡れそぼった熱い背中はボールと同じ土の匂いがした。背中の向こうから、荒い息と、二本のバッドの擦れ合う音が聞こえていた。

「聞い、て、んのか、お前は」

声変わりの途中の、掠れてくぐもった低い声を更に絞り上げるようにして、高階太一は呻いた。緩やかに、延々と続く上り坂を二人乗りで一気に駆け上がるのは、力自慢の太一でもいい加減きつくなってきたのだろうと後ろに乗る千歳は思い、素知らぬ口調で、「なんや」と呟いた。

「なんや、や、あらへん、ハア、千歳、お前、もう、降りろや」

急勾配に入る今在家町の信号手前で、太一は自転車を思い切り斜めに倒して降りた。漕ぎ手を失くした自転車は首を大きくぐらつかせ、アスファルトに打ち付けられるのを、未だ後部座席に座る千歳の片足によって免れた。太一は深く息を吐き、千歳の背中に拳を軽く一つ入れた。

「歩こうや、こっから。その方が早い。マジで急がんな、やばい」

太一は前籠から飛び出た二人分のリュックを拾い上げ、自転車のハンドルを握った。自転車を押して小走りで横断歩道を渡る太一の後を、千歳は緩慢な足取りで追った。青信号は点滅してすぐ赤に切り換わったが、間隔の短い歩道に信号はあまり関係なかった。佐保川に架かる橋に足を踏み入れた時、橋下のほうから子供の甲高い声がした。千歳は欄干に手を滑らせ、川の浅瀬で舟に模したペットボトルを浮かべて遊ぶ何人かの子供の姿を見下ろした。水面を足蹴にする男児の、つるつるとした白い膝が水飛沫の中、光って見えた。三叉路の右手を先に行く太一は、自転車を押しながら後ろを何度も振り返っては立ち止まり、また足早に歩き出すのを繰り返していた。

奈良県庁東の駐車場横から南北に走る国道369号線は、その昔は東大寺の築地塀に沿う道であったが、現在は車と人の往来の激しい道路だった。人権文化センター前のバス停にはベンチに座りきれない人々が歩道に列をなし、裏手にある市営住宅に通じる道路から、遊びに向かう子供数人が飛び出してきた。タクシー営業所の前では、外国人のバックパッカー二人組に地図を広げて道程を説明する運転手が「せやから、すぐ隣に交番がありまっしゃろ。これで分からんのやったら、そっちで訊いてくれまへんか」と大声で言い、上手のほうを指して手を振った。その交番を過ぎ、般若寺はんにゃじ町の交差点から柳生方面へ続く国道と別れ、北に伸びる片道一車線の県道754号線に入る頃には、歩道を歩く人の姿も車も疎らで、これまでの喧躁が嘘のように静かになった。ただ、半分日陰となったアスファルトの坂道がまっすぐに延びていた。その先に立って自分を待つ太一の声に、千歳は軽く手を挙げて応え、俯きがちに歩を速めた。幼馴染みの背中はもう随分遠くにあった。

二人が所属する少年団の野球チームが新体制としてのスタートを切ってひと月半経つ。ゴールデンウィークに行われた今シーズン最初の県大会では三位と健闘はしたが、あと一歩の所で近畿大会への進出を逃した。今月下旬には連覇の懸かる地区大会、来月には二つ目の全国大会の予選を兼ねた県大会と続き、それに向けて平日の練習は増え、ほぼ毎日となった。キャプテンの太一の肩に乗る期待という名の重圧も、彼自身の気概も膨らみ上がるその傍らで、エースピッチャーである千歳は高ぶる周囲の熱情に乗り切れていない自覚があった。

「急げや。もう、監督来とるぞ」

太一は坂の上に位置する奈良坂町のグラウンドの前で千歳を待っていた。すでに自転車をフェンス脇の駐輪場に停め、バットの突き出たリュックを両肩に担いでまっすぐに立ってこちらを見ていた。千歳からは逆光のせいで暗く、棒を肩に生やした人もどきが湯気を立てて仁王立ちしているように見えた。

「何笑うとんねん」

ようやく追いついた千歳にリュックを渡し、太一は眉を顰めて言った。額から汗が流れて、最近ニキビが出始めたという赤らんだ頬を濡らしていった。

「いや、お前さ、何言うてたん、さっき。ばあちゃんに」

太一は一瞬の間の後、「ああ」と手の甲で汗を拭った。

「この前の大会に大阪の有名なボーイズの監督来てたやろ。お前スカウトされとったって父さん言うてたから」

「言うなや、そんなこと」

「別にええやろ。あとは、ほら、今日、運動会のリレー選決まったやん。お前陸部の奴とアンカー競ってて」

太一はそう言い掛けた途中で帽子を取り、グラウンドの入口で一礼すると、大きな声で挨拶をして駆け出して行った。後に続いて入った千歳に、倉庫から出て来た監督の小堀の声が掛かった。

「おう、千歳、お前昨日どないしとった」

おいしょ、と山積みのボールの籠を地面に置き、千歳の前を塞ぐようにして小堀は立った。名前に反して横にも縦にも大きい、胡麻塩頭の老人の身体からは、煙草と樟脳と干物のような臭いがした。

「あー、腹が痛くなって。すんません」

小堀監督の四角い銀縁眼鏡の奥の細い目はいつもちらちらと眼球が忙しなく動き、どこを見ているのか千歳には分からなかった。じっと見返せば、小さな眼球は更に泳ぐ。

「まあ、ええ。気い付けろ。高円杯はすぐや。お前がおらんかったら練習にならんやろが」

監督の口から飛んでいく唾を横目に、千歳は鷹揚に頷いた。小堀は「はよ用意せえ」と言い捨て、再び倉庫へ入って行った。千歳はボールの積まれた籠とその辺にあった防具ケース、バケツと雑巾を掴みベンチに向かった。太一はスパイクに履き替え、ベースを置きに回っていた。千歳がベンチでスパイクに履き替えていると、他のメンバーも続々とグラウンドに入って来た。皆、一様に顔を赤く上気させている。坂の頂上付近にあるホームグラウンドは、そこに着くまでの道のりも練習のうちだった。

太一は全員揃ったのを確認すると、ランニングの先頭を切った。少年団のメンバーは東大寺境内に隣接する小学校と、高台地区にある鼓坂つさか北小学校の児童で成り立ち、部員は五十七名と市内の少年団の中でも大所帯であった。そのため、普段の練習から土日の練習試合、公式の大会などの活動は三チーム編成でほとんど別々に行われていた。主に低学年のCチーム、中学年のBチーム、高学年のAチームという編成だが、レギュラーチームのAには高学年の他に四年生が何人かいた。一方高学年でもAに上がれない者も数人いる。五十六年の歴史と数々の実績を誇る鼓坂スポーツ少年団は実力至上主義と、就任四十年目を迎える小堀を筆頭とした前時代的な厳しい指導で有名であった。OBであり現ヘッドコーチの父を持つ太一は入学と同時に入団し、四年生の春からはAに昇格、五年生で正捕手となった。千歳は同じ四年生の秋、以前から度々あった太一の観誘に折れて途中入部した形だった。

千歳が本格的にピッチャーをやり始めたのは五年生の夏だった。練習試合で使われるようになり、秋の新人戦の頃にはほぼ全ての試合で先発を任された。それを一番に喜んだのはバッテリーを組む次期キャプテンの太一だったが、中には喜ばない者も当然いた。千歳にとってはどうでも良かった。ただ、太一に半ば引き摺られるようにして始めた野球が思いのほか、性に合っていた。チームスポーツでありながら個人プレーの要素が強く、特に投球中の孤絶した空気感が心地良かった。淡白な気性は、打たれても動じない精神的な強さだと、初めのうちは小堀やコーチ陣にはことのほか良いように解釈され、ピッチャー向きだと太鼓判を押された。けれども練習試合を重ねるうち、気持ちが前に出ていないだとか、闘志が感じられない、やる気あんのかお前はというような文句を付けられることも度々あった。そう言われても、誰が見ても分かるような気持ちというものの出し方が千歳には分からなかった。そういうことは誰も教えてはくれなかった。それは球速百二十キロを出すことより難しかった。文句があるならもっと具体的に言え。生まれついた表情筋の硬さをほぐす、方法を教えろ。とは言わないまでも、そう言わんばかりの態度は指導者らの神経を確実に逆撫ではしたが、かといってマウンドを降ろす決断には至らなかった。六年生が卒団したあとは、半ば諦めたのか気持ちややる気云々の小言は減った。

錆の目立つ緑色のフェンスで囲われた殺風景なグラウンドの外周を、Aチーム十六人が二列に並んで走っていた。グラウンドより上手、県境の丘陵沿いに建つ広大な敷地の老人ホームは人気なく静まり返っていた。グラウンドの駐車場と地続きの敷地に等間隔に植えられた桜の木々の新緑の葉を揺らす音と、少年達の掛け声、荒々しい息遣いが辺りを占めていた。千歳はすぐ前を走る太一の黒く日焼けした太い首を見るともなしに眺め、先ほど言いそびれた言葉が、早まる鼓動の奥に引っ掛かり、行き場を失くしているのを感じていた。千歳は俯き、自分の白いスパイクの先に目を落とした。帽子に押し込み切れなかった前髪が数本、汗で濡れた額に落ちてくる。それを再び帽子の中に無造作に押し込み、太一の茶色く汚れたスパイクが土を蹴るのを眺めて走った。赤茶色の土の捲れる音がする。緑の蒸れた匂いがする。汗と息と、草と土の匂い。もうすぐ夏が来るのだと、千歳は思った。

練習終了の時間が十三分ほど過ぎ、ようやく解散となった後、小堀監督に呼ばれた千歳は、キャプテンの太一と同学年の副キャプテン日野翔大と共に並ばされ、懇々と続く説教に付き合わされた挙句、一人フォームの修正をさせられた。小堀はその大きな身体で後ろから覆い被さるように千歳に張り付き、腕や肩や腰を掴むように触っては耳元でがなった。ようやく解放されたと思えば、「その頭次までに何とかせえ」と帽子の上から叩かれた。小堀はラストの紅白戦での千歳の投球が気に入らず、老人のもともと短い導火線はゲーム中から火を吹き、罵詈雑言を浴びる羽目となった。張り手の一つ二つ、あほだの馬鹿だの死にさらせだの、幼稚園児並の暴言も右から左へ流せる千歳だが、練習時間を過ぎてなお続く指導と、フォームの修正と称して身体のあちこちを触られることにはかなりの忍耐を要した。

「千歳はほんま、最近打たれ過ぎとちゃうんか。バっピしに来とるんかバっピ」

甲高い笑い声を上げて翔大は自分の自転車に荷物を投げ入れた。千歳はそれに頷き、「お疲れ」と軽く手を上げ、グラウンド前の歩道から縁石ブロックに足を掛け車道に出た。

「千歳!後ろ乗ってけや!」

最後に駐輪場から自転車を出した太一が慌てて怒鳴った。

「ほっとけや」

千歳の後を追い車道を横切ろうとハンドルを傾ける太一に、翔大は怒鳴った。それに構わず太一は下りの一台を見送ったあと、反対側の歩道を歩く千歳の前へ素早く回った。

「乗れって。帰りは楽や」

太一は白い歯を見せ笑うと、けほっと咽で乾いた咳をした。千歳は黙ってリュックを籠に投げ、荷台に跨った。太一は気を良くしたように、「おーし」と掠れた声を無理やり張り上げ、ペダルを弾くように踏んだ。そのまま坂を下るのかと思えば、太一は細い路地に入り、県道と並行する旧京街道の奈良坂に出た。寺社や町屋造りの民家が並ぶ坂道は、日暮れの時刻はより閑散としていた。

「おい、しっかり掴まっとけや、ブレーキせんぞ!」

帽子のつばが太一の肩甲骨辺りに当たって脱げそうになるのを押さえ、もう片方の腕を腰に回す。分厚い腹まわりの肉を掴む右手にはまだ、ボールの感触が残っていた。昼間より僅かに冷たくなった心地好い風が、二人の白いユニフォームを膨らませ、突き抜けていった。太一は気持ち良さそうにペダルから離した足をぶらつかせた。西の空は低い山際のオレンジと赤と、上空の幾層にも重なった雲間の緑や青のグラデーションに分けられ、それぞれ別次元の空を見ているようだった。段差により激しく車体が揺れ、前へつんのめる。ブレーキを踏む気のない様子に、千歳は諦めて帽子を取り、その腕を太一の腰に回して肩に頭を預けた。太一が何かを言ったが、その声は風と自転車の軋む音で消され、よく聞こえなかった。

狭いカーブに差し掛かる夕日地蔵辺りで急ブレーキを掛け、住宅の居並ぶ小路の坂を傾斜に任せて走らせた。時折、風の中に醤油と砂糖の焦げたような匂いが混じった。祖母のよく作る煮付けと同じ匂いだった。

「腹へったな」

千歳は額を太一の肩に乗せたまま、独り言のように呟いた。

「せやな。そうや、お前夕飯うちで食うてけよ。母さん今日、餃子作る言うてた」

「あー。うん。いや、ええわ」

「ええねんって。お前連れて来いって、母さんいっつもうるさいねん」

太一は徐々に緩やかになる坂道を、少し漕いではすぐに足を止めてゆったりと下った。

「いや、今日、佐織、休みやねん」

「なんや、そうか。ほんなら、また今度な」

佐保川を越え、国道に合流する今在家いまざいけ町の交差点を過ぎると、車道の喧騒が再び二人を包んだ。二人の通う小学校前の町交差点を右に曲がり、西に延びる直線道路を走る。太一は急に重くなった自転車を立ち漕ぎし始めた。

千歳の自宅は東大寺焼門やけもん跡の交差点から西にまっすぐ、五百メートルほどの距離に建つ国立奈良女子大学の裏手にあった。近鉄奈良駅からほど近い女子大の付近一帯は往時の面影を残す家屋の間に比較的新しいマンションやハイツ、一戸建て住宅が並んでいた。焼門町から延びる道路を挟んだ向いには教育大の宿舎もあり、閑静な住宅街ながら学生の行き交う姿がよく見られた。真新しい白の外壁のマンションの植え込みに自転車を停め、太一はリュックを千歳に渡した。それを受け取り、「じゃあまた明日」と踵を返してエントランスまでのアプローチを歩みかけた時、「おい」と後ろから声がした。夕闇の中、サドルに跨ったまま上半身を捻りこちらを見つめる眼は、逆光を浴び坂の上で直立して千歳を見下ろしていた時の眼と同じだった。

「なんや」

「いや。あのさ、さっきの、監督の言うこと、あんま気にすんなや。あれでええから、お前。フォーム変えんでええから。打たれてんのそのせいとちゃうし、大丈夫やから」

帽子の下の顔は暗く陰り、その表情はよく伺えなかったが、強い口調の中に焦りのようなものを感じ、千歳は「俺、そんなにへこんで見えんのか?」と小さく笑って見せた。

「そういう訳やないけど。でも最近、監督とか、えらいお前に集中攻撃しとるから、なんか、お前も練習行くん嫌そうやし、野球嫌いになったんかって思って」

尻すぼみに小さくなっていく太一の声に千歳は溜め息を吐き、またすぐ傍まで近寄った。

「あのな、嫌なんは野球やなくて、小堀や」

「うん」

「別に何言われてもええんやけど。あいつ、いちいち近いねん。触られんのマジいらん。我慢出来んのは、あいつの息や。ドブ臭い息は吐き気して堪らん」

千歳は太一の耳元でそう囁くと、べえっと舌を出した。太一はほっとしたように頬を緩ませ、「リステリンでもあげたろか」と言った。

「それで消えるやろか。口ん中腐ってるんとちゃう」

「ひでえ」

「今度鼻栓して行こかな」

「まじか、お前ほんまにやれよ」

太一は千歳の肩を小突き、二人は笑い合ってそのまま別れた。

二階の自宅のドアを開けた時、玄関の真っ白い三和土に乱雑に脱ぎ捨てられた黒いナイキのスニーカーが目に入り、千歳は固まった。見覚えのない、履き潰されてくったりとした大きなスニーカーを見つめ、一瞬開ける扉を間違えたのかと思ったが、そのスニーカーの横にある見慣れた十五センチのピンヒールの白いエナメルパンプスがそうでないことを主張していた。ピンクのフェザーマット、白のシューズボックス、その上に置かれたアロマデュフューザー、そして玄関の正面の壁に掛けられた七五三の写真に納まる五歳の自分を見、視線は再び足元の黒いスニーカーに落ちた。

「ちーちゃん、お帰り」

リビングのドアが開き、母親の佐織が玄関のホールまでやって来た。

「遅かったんやね、今日。お腹すいてるやろ。練習、大丈夫やった?しんどない?」

佐織は千歳の肩からリュックを取り上げ、底に付いた砂を、貝殻のモチーフが付いた艶々とした青いネイルの爪先で撫でるように払ってからポールに掛けた。初めて見るデザインだった。千歳は「大丈夫」と言ってアップシューズを脱ぎ、帽子を同じポールに引っ掛けた。廊下を通り、嵌めガラスのリビングのドアを開け、脱衣所に向かうその時、フロアの中央にあるカウチソファに座る男と目が合った。片膝を立てて缶ビールを呷る男の、驚いたように見開かれた一重の吊り目から千歳は先に視線を逸らし、奥の脱衣所へ入ってドアを閉めた。勢いよく閉めたために反動で数センチ開いた隙間を見て、千歳は瞬間的に沸いた苛立ちがすぐさま冷め、つまらない気持ちになった。練習用のユニフォーム上下、靴下を脱ぎ、丸めて浴室の隅にあるバケツに放り込んだ。下着姿のまま顔を洗い、ポケットに閉まっていたボールをブラシで磨いていると、佐織がTシャツとハーフパンツを持って入って来た。

「ちーちゃん、大丈夫?」

鏡越しに見る佐織の顔は仕事の日と同じ仕様の化粧で、白い肌が光を帯びたようにきらきらとしていた。佐織は前髪を滴らせて俯く千歳の顔を覗き込み、顔から首筋、胸までタオルで拭きながら「もーべちょべちょやん」と笑った。喉の奥から絞り出すように「何が」と問うと、佐織は「え?」と手を止め、Tシャツを千歳に被らせた。

「足。昨日痛い言うてたから。走れたん?」

「走った。もう平気」

「そ。良かった」

長い睫毛を伏せてそう笑うと、ハーフパンツを千歳に渡し、少し屈んで洗面台や床に飛んだ水飛沫を拭き始めた。片方に流した栗色の緩くウエーブのかかる長い髪と、ピンクゴールドのロングピアスが鏡の中で揺れている。白いオフショルダーニットから曝け出された肩は、昼間見た、川の浅瀬で遊ぶ男児のつるつるした小さな膝を思い起こさせた。

「あいつは、何なん」

「ママの同級生。今日な、偶然、超久しぶりに会って」

タオルをランドリーボックスに放り、佐織は先に脱衣所を出て行った。千歳は鏡に映る自分の歪んだ顔を見つめ、「同級生?」と呟き掌のボールを握り締めた。

千歳が着替えてリビングに戻ると、男は先ほどと同じ体勢のまま視線を壁掛けのテレビに向けていた。ソファの前のローテーブルには中華のオードブルと海鮮サラダ、ライスロール、缶ビール数本が載っていた。カウンターキッチンからピッチャーとグラスを持ってきた佐織は千歳のすぐ横に座り、これはデパ地下のどこそこ、これは駅ナカのどこそこで買ったという説明を始めた。それを上の空で聞きながら、千歳は適当に箸を付けた生春巻きの空疎な味にも頓着せず、母の同級生だという男の横顔を注視した。毛先のみ金髪に近い茶色に染められた、重たそうな癖のある前髪に額は隠され、尖った線の細い鼻筋と、浮き出た頬骨、血色の悪そうな薄い唇、顎の不精髭、そして浅黒い肌がより男を薄汚く見せていた。皺の寄った白いワイシャツをだらしなく着崩し、ぴったりと細い黒のスラックス姿で、片足を立てて座る男の身体は全体的に骨ばっていて、横顔と同じ尖った印象を与えた。

「えらいでかい坊主やな」

薄い唇が開き、前髪の隙間から覗く吊り上がった一重の細い目がこちらを向いていた。いかにも酷薄そうな唇から出た声は、意外に柔らかい響きのする、低く甘い声だった。

「坊主って、ちーちゃんのこと?小六の子おるって、言うたやん私」

「いや、小六って、こんなでかかったっけ。俺と変わらんくない?」

「ちーちゃん大きいもんね。春の二測計、百六十五やったから、ママ完全に越されちゃった。でもたいちゃん、ちーちゃんの友達なんやけど、その子は更に大きいよね。女の子も大きい子多いよ。発育ええんやろね今の子。もう胸とかお尻とかムチムチしてたり」

サラダを突きながら声を弾ませていた佐織は、千歳の取り皿に彩りの綺麗なライスロールをよそった。同じものを男の前のテーブルに置き、「そういえば」と言った。

「あれ?確か、男の子、やったよね?黒田君も。ちーちゃんより上の子。今、いくつ?」

「さあ。もう、だいぶ会うてへんから。十四、くらいとちゃうかな」

ふうん、と、自分から聞いておきながら興味のなさそうな生返事をして、千歳の頬張る顔を眺める佐織に、黒田という名の男はむしろほっとしたように新しい缶を開けていた。千歳は小海老の唐揚げや酢豚を口に放り込みながら、男が箸をつける様子を窺い、その大きな口や鋭い目つきが蜥蜴とかげに似ていると思った。黒い蜥蜴だ。千歳の脳裏に、昔祖父母の家の庭で見つけた蜥蜴が浮かんだ。コンクリート塀に張り付いていたそれは、毒々しいほど艶やかな青黒い光沢を放ち、捕まえようと手を伸ばしかけていた千歳と太一を引き下がらせた。もうずっと記憶の奥底に追いやられていたそれは今、千歳の内側を覆うコンクリート塀を這い回り、執拗に侵入の隙を窺っていた。佐織が何事かを愉しげに話し、それに男は奇妙なほど柔らかい優しげな声音で返す。千歳の腹に溜まっていくのは海老や豚肉や米ではなく、叩き砕かれたコンクリートブロックの欠片のように重く刺々しい何かであった。

食事が済むと、佐織は後片付けも適当に風呂を沸かし始めた。カウンターに置いてあったラッシュの紙袋からボールの大きさくらいのバスボムを幾つか取り出し、テーブルに並べて「ちーちゃん、どれがいい?」と訊いてきた。カラフルな紙吹雪が詰まったショッキングピンクのもの、木耳のような海藻入りの水色のもの、鮮やかな黄緑色のマーブル模様のもの、星型のラメが散りばめられた乳白色のものを差し出され、千歳は正しく爆弾玉のそれらを眺め、溜め息を吐いて、何も湯に浮かんでこなさそうな黄緑色を選んだ。以前花びら入りのバスボムのせいで排水溝が詰まり、掃除にいつもの倍の時間が掛かったことは、もう母の頭にはなかった。佐織は黄緑色のバスボムを千歳の鼻先に持っていき「これ、良い匂いやで」と笑った。

「これね、蜂蜜と、レモンと、アボカドオイル入りやから、すごい身体に良さそうやない?足の血行とか良くなりそう。あ、今日もお風呂で足、揉んであげるね」

ぼうっとテレビの方を見て四本目のビールを空けていた男は、薄い瞼をひくりと震わせゆっくりと、その小さい眼球を動かしこちらを見た。すっと細められたその眼は嗤っているように千歳には感じられた。男は立ち上がって空き缶をカウンターに置き、「ご馳走さん」と声を掛けた。

「ああ、うん。じゃあね、ばいばい」

ソファにもたれ、スマートフォンを弄り始めていた佐織は、たった今その存在に気付いたとでもいう風に男を見上げ、「あ、お湯止めな」と言って浴室へ慌てて向かった。男はその背中を見やり、微かな溜め息を吐いてリビングのドアを開けた。猫背気味の痩せた男は、背は千歳よりやや高いくらいであったが、肩幅の広さや背中の筋肉の盛り上がり方、スエットの上からも分かる関節の太さが自分とは違い、それらが成熟した雄の匂いを纏っているように感じられ、ただひたすらに不快だった。何をどうしようと思ったのではなかった。ただ自分はもう二度とこの男の姿を目に入れたくないという感情のまま立ち上がり、出て行った男の後を追ってリビングのドアを開けた時、感情と相反する行動をとる自分への戸惑いに揺れる眼は、廊下の途中にある部屋の前で立ち止まっていた男の視線にかち合った。少し身体を捻って横目で千歳を見た後、目の前の部屋のドアに視線をやった。そのゆったりとした動きに誘導されるように、男を睨んでいた眼を同じように動かした千歳は、部屋のドアが僅かに開いていることに気付いた。隙間から覗く寝室の中は、まだカーテンを閉めていないために、窓ガラスを透した外灯の明かりに照らされ、ぼんやりと青白い色に染まっていた。男は隙間から覗くダブルベッドの脚を見つめ、目を細めた。

「大丈夫や、坊主。そこではやってへん」

カーテンを閉めないと。その考えの浮かぶ同じ時、突然降って湧いた言葉に千歳は固まった。くっきりと刻まれた男の目尻の皺がより深くなり、細い目の奥の小さな眼球が逸れていくのを時間が止まったように見ていた千歳は、男の吐いた言葉よりも、挑発と侮蔑、嘲笑の全てを滲ませたその眼に、体中の神経が痙攣する感覚に襲われ、無意識に握り締めていた掌のボールを感情の赴くまま投げ付けた。玄関でスニーカーを履きかけていた男は、まさに蜥蜴のごとき俊敏さで後ろに身体を反らしてそれをかわし、派手な音を立てて玄関の扉に当たったボールは、三和土に落ちて転がりピンヒールのパンプスの片方を倒した。小学生にしては重い球だと小堀が認めた千歳の速球を、僅か四メートルの距離で避けた男は、「なんや、えらいおっかないな」と笑い、足元のボールを拾い上げた。

「ええ振りすんなあ。ピッチャーか?」

「帰れ」

乾いた低い声に、男は口の端を下げて千歳を一瞥した後、スニーカーを突っ掛けた状態でのっそりと出て行った。

投げつけたボールが男の手に渡ったままであることを、千歳は咽かえるような柑橘の匂いが立つ黄緑色の湯に浸かってから気付いたのだった。

佐織が男を連れて来るのはこれが初めてではなかった。千歳が小学二年生の時に両親は離婚したが、生活にそう変化はなかった。父は大阪の堀江にある社員寮に移り、これまで住んでいた2LDKのマンションに佐織と二人で暮らすことになったが、姓はなぜかそのまま父の伊槻を名乗り、表札も名札も書き換えなかった。もともと共働きで忙しい両親に代わって、ずっと千歳の面倒をみてきたのは母方の祖父母であり、小学校の裏手の雑司町にある祖父宅で過ごす時間が以前より少し増えたという程度の変化だった。

美容師の父は土日祝日も仕事で、深夜の帰宅か泊まり込み、平日の休みは一日寝ているか不在という生活だったため、月に一度か二度の休みに千歳の顔を見に律儀に会いに来るようになった現在の方が、しっかりと顔を突き合わせて過ごしている感覚が千歳にはあった。とはいえその存在は、ごくたまに現われて食事や買い物、行楽地などに車で自分を連れていく、佐織の交際相手の男達よりも幾許かの気安さを覚えるくらいのものであり、稀薄であることに疑いを持たないまま育った子供の眼に映る父の姿にも変化はなかった。あるとすれば、律儀さの中にある白々しさを幼いながらに子供が感じ取ったがゆえに、見も知らぬ男達によって差し出される玩具やご馳走、動物園や遊園地の賑やかな風景を一歩引いて眺めるような冷めた眼差しと同質の距離が、父子の間に横たわったということだった。どちらにしても、千歳にとっては母が満足して居ればそれで良かった。

心斎橋のアパレル店に勤める佐織も、同じく土日の休みがほとんどなく、遅番の日は夜中の帰宅となったが、それでも低学年の頃は週に二・三日は学童保育の迎えに門限の六時ぎりぎりに息を切らして現われ、千歳の手を繋いで連れ帰った。夕飯は大抵出来合いの総菜や電子レンジの調理のものが多かったが、普段よく口にする祖母の和食中心の手料理とはまるで違う、華やかな見た目や濃い味付けの洋食は特別美味しく感じられた。いや、デパ地下の惣菜や冷凍食品が特別だった訳ではない。平日の何でもない夕飯時、佐織と二人で過ごすその時間が日常のまさに彩りのようなものであった。千歳が高学年となると、佐織は遅番の割合を増やし、以前より祖父母の家で夕飯をとる回数も多くなり、よりその時間は貴重となっていった。母はこれまで一度も、家の中に男を入れたことはなかった。

佐織はたまに土日の休みがあると千歳を遊びに連れ出したが、離婚後は二人の外出に男が交じるようになった。車と金を出すだけの男は、添えられたというのが妥当なほど、子供中心の佐織の態度は一貫していた。それは男の顔や車の車種が変わっても同様で、夜、家の前の通りで買い与えられた玩具を手に、車の窓からにこやかに手を振る男を見送る千歳はいつしか、容貌も服装も言動でさえも似たり寄ったりの彼らを十把一絡げにそういう役割を持った存在の、それ以下でもそれ以上でもないということを、自然と理解し受け入れるようになった。あくまで彼らは佐織にとって、数回店で着用しては捨てられる洋服のように、ひと月に一度塗り替えるネイルのように、常に新しく変わっていくことに意味があるような存在なのだと思った。声変わりや精通など第二次性徴を一通り済ませていた今の千歳には、彼らがただ与える側であった訳ではないことも当然知っていたが、したくもない盲想の末に涌き上がる嫌悪は、他人の手が自分の肌に触れるような嫌悪ではあったが、それは触れられてもすぐに通り過ぎるものと同様に、堪えていればそのうち居なくなるものであった。このような、目の前が真っ赤になり、脳味噌が引きつけを起こしたのかというような激しい嫌悪を、千歳は知らなかった。皮膚を突き破り心臓をじかに撫でられる、それは嫌悪を超えて恐怖であった。あの黒田という男の何がそう自分に思わせたのかよく分からないまま、千歳はその夜、今にも腹から飛び出しそうな重い塊を抱え、佐織と同じベッドで訪れぬ眠りを待っていた。こちらに背を向け、規則正しい寝息を吐いて眠る佐織の華奢な肩を遠く感じた。先ほど浸かった黄緑色の湯の中で、懸命に細い指に力を込めて自分のふくらはぎを揉み解す佐織の、すぐ近くにあるはずの顔を遠ざけた白い湯気のように、薄く霞がかった靄のようなものが、一つのベッドに横たわる自分と母とを隔てていた。

膜だ。白っぽく透けた薄い膜が瞼の裏で翻っている。千歳は羊膜を被って産まれてきた子供だった。出産に立ち会った祖母が、その時の様子を幾度も語って見せ、最後には「袋子いうのはな、めでたい、縁起のええもんやから、お前は必ず出世する、大物になる」とお決まりの台詞を吐いた。ふくろごという響きは、幼い頃には母の腹にぴったりとくっついて離れないカンガルーの子をなんとなく連想させ、自分と佐織がそうであることを思わせた。それは、いつしか離れてもどこにいようとも同じ膜で包まれているという安心感をも育てていた。百点を取ろうが一等になろうが、いかなる功績も「袋子やから」の一言に収束させる呪いでもあった祖母の口癖は、千歳の芽生え始めたかどうかも分からない自我を確実に内へ押しやったが、それは同時にこの世で唯一の存在との繋がりを確かめられる言葉でもあった。その膜に、今、亀裂が入っているように感じられた。

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