「善知鳥」 四

「善知鳥(うとう)」

五月二十日の夜、椋二は宇治から訪れた祖父の知人の車を木津きづ方面行きの県道まで見送り、長屋の路地に戻った。暗い路地を歩くうち、知らず深い溜め息が出た。火葬式後、祖父とは同窓で長年の釣り仲間でもあったという知人から、生前祖父が愛用していたロッドを一本形見分けに欲しいという話を受けていたため、都合の良い日時に取りに来てもらったのだが、海・渓流用合わせて十本以上あるロッドや、リールやルアーなどの釣り具ひとつひとつを検分しては故人との思い出を語り、椋二の幼少時代を懐かしみ、果ては自分の経歴や兄夫婦の塾年離婚から老母の介護問題などにも脱線する年寄りの話は二時間半以上続き、居間の古時計が十一時を指すのを見て「えらい長居してもうた」とロッド二本と未使用の仕掛けなどを抱えてそそくさと帰っていったのだった。祖父の釣り具一式はガラクタばかりの家財の中ではまだそれなりの値が付けられるものであったが、ぼろぼろに剥がれた炊飯器の釜で飯を食い、洋箪笥の裏を黴だらけにしていた祖父が、唯一、小まめに手入れをして大事にしていたという物を売る気にはならなかった。かといって函館まで持ち帰るのも面倒なので、全部引き取ってくれたほうが良かったのだが、元京都地検検事で今は弁護士をしているという爺さんは「椋ちゃんが持っててくれんなあきまへん」と繰り返し、固辞したのだった。

路地の突き当たりに置いたごみの山は、結局椋二が酒井から軽ワゴンを借り、午前中に佐保台の浄化センターまで運んだ。昨日酒井の息子が営む道路保安会社の八条町での工事現場で歩行者が怪我をする事故が発生し、車を返しに行った際に会った酒井の爺さんの口ぶりでは被害者は当たり屋まがいの、裏にややこしい連中の付いた輩らしく、事故処理が長引きそうだということだった。酒井の「けったくそ悪い連中に目えつけられた」と洩らす苦虫を噛み潰したような顔を思い出し、しばらくあの爺さんは来ないだろうと思い、家の引き戸を開けた時、椋二は空気を切り裂くような、鋭く響く衝撃音に動きを止めた。音の方向を振り返ったが、そこには無造作に置かれた物干し台や長椅子、夾竹桃きょうちくとうなどの植樹が月明かりにぼんやりと浮かび上がっているだけだった。静まり返る路地に、再び鋭く弾けるような音が響き、椋二は路地の突き当たりのブロック塀ににじり寄った。塀の向こうは昔から酒井の同じ町内に住む縁戚が所有する月極駐車場となっていたが、敷地の面積に対して駐車する区画が少なく、表通りにある奈良坂神社境内の雑木林と地続きになっていたこともあり、その広々とした土地は、椋二をはじめ狭苦しい長屋の子供にとっては格好の遊び場でもあった。近くにあった長椅子を引き寄せて乗り、塀に手を掛け向こうを覗くと、ぽっかりと空いた仄暗い空間に一面広がる砂利の砥石の白さがまず目に入った。そして二十メートルほど離れた向こう、雑木林の陰に紛れて立つ人の姿に気付いた瞬間、今度は手から震動を伴って、ブロック塀にボールが叩きつけられる音が椋二の鼓膜に突き刺さった。人影は月の光にその面を僅かばかり見せた。見覚えのあるその面に、椋二は地面に降りると、路地を走り出て裏の小路を抜け、駐車場の面する道路に出た。砂利の軋む音に、敷地の奥に立つ、左足を上げ振りかぶる動作を止めた少年がこちらを見た。月明かりの中でもはっきりと分かる見覚えのある顔立ちに、椋二は改めて目を見張った。黒っぽい無地のキャップを被り、青いアンダーシャツを着た少年は左足をゆっくり下ろすと、掌のボールをグローブの中にぽん、と落とした。眉根を寄せて目をすがめる少年に、椋二は溜め息を吐き一歩一歩と近づいた。

「壁当てか」

少年の身体の向き合う先、ブロック塀に書かれた×印を見て椋二は言った。「ちょっと、遠くないか?距離、測ったんか?」

椋二の言葉を意外に思ったのか、少年は眉を僅かにくつろげ、目を見開いた。淡い薄暗がりの中でも、その大きな瞳が明るい茶色をしていることが分かった。少年はその大きな瞳でじっと椋二を見つめた後、軽く頷き、ハーフパンツのポケットからメジャーを出した。

「十六メートルか」

椋二は呟いた。それは学童野球の投手本塁間の規定距離だった。椋二はかつて遊んだ広場の面影を残す敷地を見渡し、まだ口を固く結んだままの少年を見て言った。

「投げる時、ちょっと遠くに感じひんか?壁当てはもうちょっと距離縮めてやったほうがええぞ」

少年は×印の書かれた塀を見つめ、軽く首をかしげ、飴細工のような薄茶色の瞳をすっと動かして椋二のほうを見た。

「・・・何で」

「何で、ってせやな、壁っていうのは平面やから、実際より遠く感じるんや。一、二メートルくらいかな。距離感が狂うと、無意識に肘高くなったりして、抜けやすくなるし、痛めやすい。さっきの見てへんかったけど、高めやったか?」

少年はまた微妙に眉を寄せただけでどちらとも言えない顔をした。椋二は自分が表情豊かな部類に入る人間ではないことを自覚してはいるが、その上でこの子供の表情の乏しさを面白く思った。いや、この少年の場合は表情に乏しいというよりも、目を留めて眺めずにはいられないほどの端正な顔立ちが、鎧のように固く表面を覆い、それが少年の感情の噴出を抑えているように思えたのだった。その鎧の唇が、重そうに開いた。

「そうやなくて・・・何で、おるんや」

「あ?ああ。あっちのほう、俺の、実家や。えらい音したから」

椋二は塀の向こうに見える長屋の瓦屋根を指差した。少年はまた少しばかり眉を上げて、ふ、と息を吐いた。椋二は長屋のほうを向いたまま「あの辺は年寄りばっかりやからもう寝てるもんも多いやろうし、ここは一応駐車場やからな」と言い、少年の顔を窺い見た。

「なあ、なんでこんな時間に一人でこんなとこで練習してるんや。危ないぞ。いつもしてるんか?」

「いつもは・・・八時くらいにそこの神社まで走って、遠投したりするだけや」

遠投ということは、相手がいるということだ。今日、たまたまその相手がいないだけか、一人で練習する日だったのか、会ったばかりの椋二には分からないが、ふと、昨日この少年のマンション前で見掛けた同じ年頃の少年を思い出した。大人顔負けの背格好は同じながら、目の前の少年とは違って、帽子の下のよく日焼けした丸い顔、刈り上げたうなじはどこにでもいそうな普通の野球少年という印象しかなかった。

「今日も走ってきたんか?」

椋二の言葉を無視し雑木林のほうへと向かって歩き出した少年に、椋二は慌てて「いくら何でも危ないって。あの辺、昔よう変質者出たりしてたぞ」と追い掛けた。

「俺、男やから関係ないし」

「いや、せやけど、そういう趣味のやつもおるし。特にお前みたいな」

立ち止まって振り返った少年の目が光って見えた。夜でも分かるほど透明度の高い、明るい瞳だった。瞳孔と虹彩こうさいが鮮明に見て取れ、それが小刻みに揺れ動くのに気をとられた。ほうけた椋二は自分が何を言おうとしたのか忘れた挙句、彼の地雷を踏む言葉を口に出してしまった。

「佐織は、お母さんは、心配してへんのか」

母親の名前に肩をぴくりと震わせた少年は、無言のまま背を向け、林の暗がりに向かって駆け出した。椋二は咄嗟にその背を追い掛け、腕を掴んだ。

「待てって。車そこの大家に借りてくるから」

「放せ」

思いっきり手を振り払われ、椋二は一瞬逡巡したが、無意識にまたその手首を掴んでいた。

「俺が嫌いなんは構わんけど、もしお前に何かあったら、あいつどうなんねん」

「お前に関係あるか」

吐き捨てるような言葉とともに少年はまた手を振り解いた。椋二は苦笑いした。その通りだ。椋二は少し痛みはじめた米噛みの辺りを擦った。

「そうやな。あらへんよ。でも、全く知らん奴でもない。ええからちょっと待っとけよ」

敵意と嫌悪を顕わにする少年に対して、火に油を注ぐようなお節介を焼いてしまう自分が不思議であった。放っておけばいい。小さな子供でも女児でもない。一体何が危ないというのか、自分でも分からなくなった。椋二は今にも走り出しそうな少年の腕を引き、道路側に出るよう促したが、今度は振り解くことはなく、ただ俯いて「放せ」と呟いた。

「放すから。逃げんなよ」

「・・・車は、嫌や」

脅えのようなものの滲んだ声に、椋二は掴んだ手を離した。少年は俯いたまま掴まれた腕に手を当てていた。道路を挟んだ向かいの家から人の話し声や物音が聞こえ、今この様子を住人などに目撃されたら完全に自分が変質者扱いだと思い、空を仰いで溜め息を吐いた。

「じゃあ、せやったら、俺も走るから。それやったら、ええやろ?」

雑木林を渡る風の音がうねりを上げて暗い空に吸い込まれていった。前の道路を黒いミニバンが通り過ぎ、走行音が静寂の中ゆっくりと遠ざかっていく。顔を上げた少年は、手に下げていたアディダスのワンショルダーのボディバッグを肩に掛け、小さく「勝手にしろ」と言って顔を逸らした。

雑木林を抜け、奈良坂神社の脇道から旧京街道きょうかいどうに出た椋二は、数歩前を早足で歩く少年の背中を見つめて今日何度目か分からない溜め息を吐いた。境内の砂利道から舗装道路に出るなり走り出した少年の後を追って椋二も坂を駆け下りたのだが、百メートルほど走ったところで止めさせた。右の足首を気にして走る様子が僅かにではあるが見られたためであった。下り坂を走るのは余計な負担が掛かるから歩いたほうがいいというようなことを言えば、少年は無言ながら素直に従った。

少年は顔かたちばかりでなく、成長途中の細身ながら均整のとれた身体つきをしていた。しっかりと広い肩幅に対して細く高い腰はピッチャーをやるには不向きのような気はしたが、綺麗な逆三角形を描く上半身にはしなやかな筋肉が付き、姿勢の良さもあってか活動的で健やかな印象を与えた。何より目を惹いたのは、まっすぐに伸びた脚だった。ハーフパンツの上からでも分かる筋肉の付いた引き締まった太腿から、ぴったりとしたアンダースパッツの膝裏、ふくはぎの盛り上がりと細い足首にかけて一本の芯がまっすぐ通り、地を踏んでいた。ひどいO脚である椋二は、もはや羨ましいなどという思いすら起きないその脚が地を蹴っては踏むのを眺め、先ほどから続く現実感の無さが加速しているのを感じていた。少年の後ろ姿の全てが椋二を拒んでいた。椋二は掛ける言葉が次々と喉の奥で死んでいくのを見送りながら、重苦しい沈黙が続く薄闇の坂を下った。ごくありふれた住宅街の坂だが、般若寺の楼門や向かいにある牧場の牛舎、興善院こうぜんいんの石塔、人間の大きさくらいある夕日地蔵の並びなど、この奈良坂の町独特のじんわりと肌に絡みつくような気配のある闇は、昔と変わらないものかと思ったりした。

佐保川の手前、国道369号線へ合流する道とは別の、入り組んだ生活道路に入ろうとする少年に椋二は驚いて声を掛けた。

「いつもこの道なんか?」

「こっちから下りたほうが近いやろ」

憮然とした声音ではあったが、返事が返ってきたことに椋二は少し安堵した。

「まあ、直線的にはそうやが」

街灯もろくになく、アスファルトのひび割れが目立つ悪路よりも国道沿いの方が色々な意味で安全だと思ったが、口には出さなかった。相手はそれを察したのか「いつもは向こうや」と呟いた。話の接ぎ穂を失い椋二は、一層薄暗く狭まった小路を黙々と進む少年の後を、理屈のつかない暗澹とした心持ちに押しやられながら歩いた。今在家町いまざいけちょうから佐保川に沿って、南西に下る。県道104号線を越え、路地をいくつか曲がり、北魚屋町きたうおやまちの手前、教育大の宿舎の前を通り過ぎる途中、尻ポケットのスマートフォンが震動した。未登録の電話番号に少し間を置いてから出ると、《もしもし?黒田君?》と泣き出す寸前のような女の細い声がした。椋二は一瞬離婚した元妻の顔が浮かんだが、すぐに最近再会したばかりの昔の女だと気付いた。

「佐織か?ちょうど良かった」

椋二は息を深く吐き、子供が家にいないから一緒に探してほしいと言う佐織に事の次第を説明し、「大丈夫や。もうそっち着くから」と言って通話を切った。なぜ自分に掛けてきたのかと疑問に思ったが、弱々しい泣き声などを聞いてしまうと、ここまで見送って来て良かったなどというらしくもない殊勝な考えも起こり、椋二は自嘲の笑みを洩らして「お母さん待ってんぞ」と、通話の様子をじっと窺っていた少年のほうに向き直った。一切表情を変えぬまま、ただ射抜くような鋭い眼差しを向ける少年に、椋二は歩き掛けた足を止めた。数日前、彼の家の玄関でボールを投げつけられた、あの時の怒りとも侮蔑ともつかない激しい感情の波動に似た揺らめきが、少年の身体から立ち上っていた。

「そこの道、渡ってすぐやろ、マンション。もう、お母さん出てくるから。あんま心配掛けんなよ」

スマートフォンを仕舞い、椋二は踵を返した。もう二度と会うことはない少年に背を向け戻りかけた、その時だった。

「あんたさ」

凛とした響きのある低い声がした。それまでの気だるそうな物言いとは違うはっきりとした声音に、椋二はいぶかしげに振り返った。

「あんたさ、野球やってたん?」

少年の意外な言葉に、椋二は眉根を寄せたまま「ああ。中学で辞めたけどな」とだけ答えた。

「じゃあさ。夜の自主練、付き合ってくれへん?」

「は?」

「壁当て、あかんのやろ」

椋二の脳裏に、月明かりに青白く染められた砂利の上で、片足を高く上げて立つ少年の姿が蘇った。

「あかん、ていうか、壁相手やと、距離感が難しいから、あの距離でやりたいんやったら、なんか立体的なもん置いたりしたほうがええって言おう思っただけや。まあ、場所もよその駐車場やし、あかんっちゃあかんけど」

「・・・あかんかったらいい」

その言葉は、椋二が練習相手になれないことを承諾する意味だと察し、まるで噛み合っていない会話だと思いながら、次の言葉を探していると、向こうの小路から幹線道路を横断して駆け寄ってくる佐織の声が、静まりかえる路上に響いた。息子の名前を繰り返し呼び、抱きしめる様子を目の当たりにし椋二はやや呆気に取られた。恐らく仕事帰りの格好のままなのだろうが、耳や首や手首にじゃらじゃらとアクセサリーをぶら下げ、光沢のある薄手のコートを羽織った女の、ミニスカートから伸びる足だけは裸足であった。

「良かった・・・ちーちゃん。スマホも家にあるし、おじいちゃんとこ掛けても繋がらんし。どこ行ったんかと」

佐織は顔に掛かった自分の長い髪を払い、その手で額を覆って深呼吸をした。キャップを取って息子の顔を見つめ、彼の前髪を掻き上げるように触ると「ありがとう、黒田君」と言った。

「ええけど、お前、裸足やぞ」

「え?ああ、さっき、どっかで落としちゃって」

アイメイクが滲み、黒ずんだ目元を緩めて笑った佐織は、三十路過ぎの歳相応の女に見えた。そのすぐ傍で、母親の横顔を見つめていた少年は、掌の中の白いボールを強く握り締めていた。

マンションの建物内や付近を見回った際に脱げ、そのまま放ってきたという靴を、椋二はマンションの裏庭で見つけた。暗がりの中、花壇の脇とブロックベースの上に転がるピンヒールのパンプスを拾い上げた時、ふっと青臭く饐えた臭いが鼻先を掠めた。祖父と一晩過ごした居間の菊の花と線香と死臭の混じったあの独特の臭いを思い出したが、またすぐに立ち消えた。エントランスホールで待つ佐織のもとに向かうと、そこには昨日ここですれ違った野球少年と、一目でその父親だと分かる同じような平坦な顔立ちの大柄の中年が居た。何度も頭を下げる佐織に、父親も長身を屈めて笑顔で応じていたが、子供のほうは不機嫌そうに口を尖らせて目の前の少年を睨んでいた。少年はその視線を煩わしそうにしてそっぽを向いていた。恐らく佐織が椋二の前に息子の友人関係へ電話でもしたのだろうが、この時間に駆けつけてくるほどの友人に対する態度としては不自然であった。やはり喧嘩か。椋二は溜め息を吐きエントランスの自動扉をくぐった。四人は同時にこちらを見て、佐織が慌てて「ごめん、ほんと、ありがと」と駆け寄ってパンプスを受け取った。中年の男は「じゃあこれで」と背を丸め、「千歳、また明日な!」と、ことさら明るい声を出し、椋二のほうにも軽い会釈をして出て行った。父親に続いて息子が出て行った後、椋二はどこかぼんやりとした様子の少年に「なあ」と声を掛けた。

「俺は構わんよ、自主練。ここに居る間でええんやったら」

椋二の言葉に、白いパンプスを履いていた佐織は「え?何のこと」と息子のほうを見た。椋二はそれには答えず「明日からでいいか?」と聞いた。少年はしばらく大理石の床に視線を落とした後、まっすぐ椋二の目を見て言った。

「・・・土日は練習試合あるから」

「じゃあ月曜からな。何時がいい?」

「八時くらい」

「分かった」

椋二はタクシーを呼ぶという佐織に手を振って、足早にエントランスを出た。LEDライトが設置されたアプローチ沿いの花壇に整然と並ぶマリーゴールドの花を見やり、椋二はその青臭い独特の香りに、先ほど裏庭で嗅いだ臭いもこれであったのかと思った。

かつて何度となく行き来した故郷の坂道を上っていくうち、椋二は浮遊感を伴った奇妙な興奮を覚えている自分がいることに気付いた。慢性の頭痛は今夜も米噛みや額の裏に重い疼きをもたらしていたが、いつもは煩わしいはずの震動がまるで気にならなかった。頭の中は自然、三日前の祖父の火葬の日に立ち返っていた。

十七日の正午過ぎ、祖父の火葬式を終え、椋二は市営斎場から奈良坂の家まで送ると言う葬儀会社の担当者の言葉を断り、適当な口実を作って近鉄奈良駅前で降ろしてもらった。入り組んだ長屋の狭い路地に葬儀会社のバンで乗り入れることに気が引けたのもあったが、火葬したその日の祖父の家で過ごす時間の多さに嫌気のようなものを感じたせいでもあった。噴水広場前から東向商店街に入り、昔と変わらず田舎臭さ丸出しの賑やかなアーケードをふらついていると、「黒田君?」と後ろから声を掛ける女がいた。一度通り過ぎたのをわざわざ戻って声を掛けてきた女は、中学の同級生渡辺佐織で、当時の面影を残しつつもその垢ぬけた都会的な容姿は、観光客や地元の中高生、主婦や老人がほとんどを占めるアーケード街では飛び抜けて目立っていた。そうして、ネイルサロンの帰りだというミニスカートにピンヒールの女と焼き場帰りの喪服にスニーカーの男は、互いの身の上や腹の内など全く無関心のまま、十六年前のたった半年の交際を縁に、空々しい馴れ合いを見せたのだった。

その日椋二の瞼の裏に焼きつけられたものは、灰に埋もれた祖父の消炭のような白い骨でも、カウチソファの上で開脚する女の血管が透けるほど白い太腿でもなかった。その女の腹から生まれたという、まるで若い恋人のような息子が刹那に見せた憎悪に満ちた瞳であった。

小学生というには不相応な体格と大人びた雰囲気を持ち、椋二の存在に動じる素振りも怯むこともなく、ただ冷たい無表情を張り付かせた顔を突きつける子供を見て、椋二が初めに抱いたのは単純な好奇心だった。偶然再会した女の過去や現在に興味の持ちようもなかった自分が抱いた、この女は一体どういう男に種を注がれてこの子供を産んだのか、自分の子供にこれまでどれだけの不貞を見せてきたのかという下世話な好奇心はしかし、当の母子が醸し出す、他を寄せ付けない濃密な空気感に次第に萎えていった。代わりに湧き上がったのは、恵まれた容貌と伸び盛りの健康な身体を持つ少年の存在に対しての、言いようのない妬ましさであり、もうひとつは、とうの昔に忘れ去っていた、男か子供か、女であるか母であるか、などという天秤に一度も掛けられることもないまま母親に捨てられた、かつての自分の惨めさだった。

言うつもりなど全くなかった挑発めいた言葉が口を突いて出たのは自己欺瞞だったと、椋二は今、思った。相手はどう大人びて見えようと小学生なのだ。そんな子供をからかうのにその母親を絡めるのは正に子供の所業だと自嘲する傍ら、それまでの能面のように冷たく澄ました顔をかなぐり捨てて少年が椋二に激情をぶつけてきた、あの時の、一瞬にして鋭利な刃物で身体を裂かれるような、臓腑が剥がれ落ちるような爽快感に似た衝撃の理由を説明することは出来なかった。今にして思えばあの少年は、自分の前では呆れるほど感情が目に表れる。

南の空高く、満月にやや満たない月が掛かる。奈良坂の頂上付近に建つ神社の奥、薄明の月を遠ざける鬱蒼とした雑木林の暗闇を歩く椋二は、ほぼ無意識のうちに少年の名を呟き、その声は風のざわめきに掻き消された。

「善知鳥」 五へ

scroll

目次