「善知鳥」 五

「善知鳥(うとう)」

月曜日は朝から雨だった。髪のウエーブが上手くいかないと何度もアイロンを当て直す佐織に、千歳は手を貸してやった。ついでに緩い編み込みのアップも手伝っていると、佐織のスマートフォンに少年団から練習中止を知らせるメールが入った。佐織は「良かったね、ちーちゃん。昨日も疲れてたもんね。今日はゆっくり休みや」と言い、「うん、良い感じ」と満足気に鏡の前で頷いた。七時四十分、いつも通りの時間に迎えに来た太一は、いつも通り腫れぼったい瞼をして、昨日のナイターの話や朝から妹と喧嘩をしたこと、体育の時間にやる予定のリレーの練習についてなどといったどうでもいい話をし、それに適当に相槌を打つ間に学校へ着いた。いつもと違うのは試合の話をしないことだった。週明け、必ず週末にあった試合を話題にする太一が口にしなかった理由は、二日連続の惨憺たる試合内容のせいであろうが、それ以上に千歳が引っ掛かったことは、金曜日の夜のことについてもあれから一切触れてこないことだった。

佐織から、急に通し勤務となり遅くなるという旨のラインが入ったその晩、一人でひたすら走り込みをした千歳は、坂の上の神社で身体を休ませていた。さすがに走り過ぎたか、帰る気力もなかったが、それくらい疲れ果ててしまわなければこの数日寝付けそうになかった。幾度振り払っても、あの男の残像が消えず、胸のざわつきは治まらなかった。走るだけでは足らず、いつもの習慣で持ち出していたボールとグローブを手に、壁当てが出来る場所を求めて探し歩き、そして皮肉にもそこでもう二度と会いたくないと思っていた男に会ってしまった。けれども薄闇の中、あの男の蜥蜴のような眼を見た時、胸に去来したものは、自分でもそうとは分からぬ微かな喜びであった。

結果的に千歳は後悔した。佐織に心配をかけたくてやったのではなかった。太一に対しての当てつけでも勿論なかった。泣きながら裸足で駆け寄って来た佐織を見て、真っ赤な顔をしてエントランスに駆け込んで来た太一を見て、千歳はつくづく物事が裏目に出てしまっていることを痛感した。腕は思うように振れず、下半身はだるかった。週末の格下相手との練習試合を、ヘッドコーチを務める普段は温厚な太一の父親が怒髪天どはつてんを突くほどの結果に至らしめた、その大半の原因は自分にあったが、終始自分を庇いフォローを続ける太一に千歳はさらに胸の底が重くなるばかりであった。何か、言葉が欲しかった。どうでもいい、当たり障りのない話などではなく、自分の心にずかずかと入ってくる言葉が欲しかった。そのいっぽうで、これ以上踏み込んできてもらいたくはないという矛盾を抱え、千歳の眼は雨催あまもよいの空を映したようにくらかった。

雨足の強くなった昼休み、三階の渡り廊下の端にある段差部分に腰を掛けていた千歳は、自分の陰茎を舐める凛花の肩を押しやり「もういい」と息を吐いた。不服そうな顔で濡れた口元を拭う凛花の腕を引き、膝に座らせて唇を舐めてやると、少し恥ずかしそうにはにかみ「ここじゃ濡れちゃうね」と雨垂れが激しく撥ねる軒先に目をやった。

「へえ。濡れてんの?」

スカートの中に手を入れ、内太腿に指を這わすと、凛花は「もう、そうやないよ」と笑い、千歳の手を掴んだ。

「今日ごめん、生理」

凛花は掴んだ千歳の手を自分の胸の方に引き寄せ「でも、今日、来るよね?練習ないんでしょ」と念を押すように言った。千歳はそれには答えず、彼女を膝から下ろし立ち上がってベルトを締めた。入り込む雨飛沫あめしぶきに片方のスラックスの裾は色が変わるほど濡れ、太腿の辺りは生温かく、僅かに湿っていた。いつものオレンジベルガモットの香りの中に薄らと経血の臭気を嗅ぎ取り、その動物的な匂いに腰骨の辺りがじんと疼いた。凛花は淡いブルーのタオルハンカチを取り出し、千歳の雨の掛かった方の腕を拭き「一緒に観てほしい映画あるん。いいでしょ?」と今度はかがんで濡れそぼった裾にタオルハンカチを押し当て水気を吸わせた。

「映画?」

「そう。去年観に行けなかったやつ。昨日パパが借りてきてくれたから」

「俺また途中で寝るけど」

「いいよ、じゃ決まりね」

そう言うと今度は手鏡を取り出し手櫛で髪を梳き始めた。去年のクリスマス、今年の正月と続けて映画館に連れて行かれたが、人気少女漫画原作だという、いずれも似たような役者の似たような内容の恋愛物に一時間も持たずに寝てしまった。彼女はそれでも一向に構わないらしく、帰りの駅のスターバックスで映画の感想を愉しげに語った。どんなに千歳が無気力無関心であっても、凛花はいつも勝手に愉しそうに進めていき、言葉の少ない千歳の分まで喋り尽くす。いちいち相槌を打つのも面倒になり、仕舞いには頭を微かに振って頷くだけになるが、文句を言われたことはなかった。彼女にとって大事なことは、自分の傍に千歳が居るということだけなのだ。人気ブランドの洋服や靴や鞄と同じ、自分を着飾るものの一部でしかない。清々すがすがしいほど自分勝手な彼女と居ることは、同じくらい自分勝手な千歳にとっては楽でもあった。何を考え、腹にどんな薄暗いものを抱えていようが、この面の皮一枚あれば構わないのだろうと思えば、中途半端に熱を持った下半身も雨ざらしの肌と同様に冷えていった。凛花は立ったままスマートフォンの画面に見入り「あ、佐織ちゃんのお店のインスタ、アップされてる。本日入荷のワンピースやって。やばい可愛い過ぎ」と画面をこちらに向けた。白い煉瓦の壁をバックに、大型の観葉植物の横で視線を落としてさり気なくポーズをとる佐織の姿が、きらきらとしたフレームに収まっていた。千歳は画面からすぐに目を逸らし、凛花の眼を見て「お前さ」と呟いた。

「何?」

「あんま奥田とかいじめんなよ」

凛花は長い睫毛に縁取られた大きな眼を更に見開き、千歳の顔を見据えた後、「何それ。そんなことしてへんよ」とそれまでの声のトーンをずっと下げてつまらなそうに笑った。

「太一君に何か言われたん?それで、真に受けてんの?」

「やったかどうかとかどうでもいいんや。ただ、あいつの気に障るようなことすんな」

「何それ。そんなに太一君が怖いん?太一君て、なんなん?」

直球を返され、今度は千歳が言葉に詰まった。渡り廊下の屋根を打つ雨音がより大きく響くように感じられたその時、反対側のB棟から扉の閉まる音が聞こえ、上靴の擦れる足音が渡り廊下に近付いてきた。千歳は溜め息を吐き「もう戻ろう」と校舎の階段のほうへ行きかけたが、「待って」と凛花に腕を掴まれ立ち止まった。眉をしかめた千歳に「ごめん、怒った?ごめんね、千歳君怒らんといて」と進路を塞ぐように前へ回って抱きついてきた。

「別に怒ってへんし、いいから放せって」

「ほんまに?良かった。なんか、千歳君って私よりいっつも太一君優先みたいやから、ちょっと嫌やなあって思って」

太一を優先した覚えなどないが、否定する気も起らず、ただ面倒だと千歳は思った。予鈴が雨音の中鳴り響く。千歳は凛花の腕を解こうと彼女の背を撫で「もう行こう」と促し、後ろのほうから感じていた人の気配に鬱陶しそうな目を向けた。渡り廊下の真ん中に数冊のファイルを抱えた太一が突っ立っていた。三階のB棟には視聴覚室と家庭科室の他、児童会室があったことを思い出し、舌打ちしたい気分になった。

「あー、太一、今日先帰っといてくれ」

「・・・翔大達と、一条の室内練習行くことになったんや。お前も、来いよ」

翔大の父親である日野コーチは、雨で練習が潰れた日によく近くの室内練習場を借りて練習をさせることがあった。強制ではないと言うが、レギュラーにとっては同じことだった。張り付くような視線をかわして歩きかけた千歳に、太一は「来いよ、千歳。高円杯、翔大が先発になんぞ、ええんか!」と声を上げた。

「今日ぐらい休ませてくれ」

湿気と汗と土の臭気の籠もる薄汚いプレハブの天井の下で、週末の二日間顔を突き合わせていた連中と過ごすことに今は耐えられそうになかった。千歳はやんわりと腕を絡めてきた凛花をそのままに、階段を降りた。互いの教室に別れる際「じゃあ終わったら待っててね」と言いながら凛花は千歳の手を強く握り、ぱっと離していった。廊下側の窓から顔を突き出して見ていた男子の一人に「お前って、何でそんな、何でもないって顔してあんなん出来るんや」とどこか感心するような口調で呟かれ、千歳は昨日小堀監督に浴びせられた雨嵐の叱責の中に、同じような言葉があったことを思い返した。

「負けたのにようそんな何でもない顔出来るな」

何でもない顔とはどういう顔だろう。千歳は自分の顔の上に自分とは別の人間の顔か何か、仮面のようなものが覆い被さっているのではないかと思った。

下校時には小雨となっていた雨も、夜にはすっかり上がっていた。佐保川沿いの凛花の家からの帰り、千歳は一人国道の坂を下っていた。祖父と祖母からそれぞれ三回着信が入っていたことに気付き、祖母へ折り返すとなぜか祖父が出て、友達の家で夕飯を食べて今から帰ることを告げると、もっと早く連絡しろと怒られた。時刻は八時半だった。金曜日のことがあったせいか、いつもより口調は荒かった。学校帰り、凛花の家に寄る前に一応祖母に連絡を入れたのだが、その時は夕飯のことなど言わなかったので当然の反応だった。

自己嫌悪と、微妙な時間に眠ったせいで気だるく鈍くなった頭の中は曇っていた。やることをやってさっさと帰るつもりが、寝てしまい、起こされた時はすでに彼女の両親が帰宅していた。適当に挨拶をして帰ろうとするところを、彼女の母親に捕まり、一緒に夕食をと勧められ、半ば強引に食卓に着かされた。母親は更にもう一品増やそうと料理を作り始め、凛花がその手伝いに立ったため、二人だけとなった食卓で初対面の彼女の父親から、趣味や特技や学校、家族のことなどを矢継ぎ早に訊かれ、その嬉々とした浮かれ様に千歳の図太いはずの神経はみるみる擦り減っていった。蹴り出してくれたほうがよほど楽だと思った。蹴り出されるだけのことをしていると言えば、あの優しげな父親はどんな顔をして怒るのだろう。

結局映画を観ずに過してしまったため、さすがに悪いと感じた千歳は、帰り際凛花に謝ったのだが、彼女は至って機嫌良く「また今度ね」と笑った。玄関を出ると、隣の家の庭先で素振りをする翔大と目が合い、盛大な舌打ちをされた。無視をするのも馬鹿らしく「よう」とだけ声を掛けると「千歳!背番号1返してもらうからな!」と返ってきた。門扉のところまで見送りに来ていた凛花がすかさず翔大のほうを向き、「は?何言うてるん?もともとあんたのもんと違うやろ。あほとちゃう」と小馬鹿にするように笑った。翔大はバットを足元に投げ「凛花てめえ、関係ない女が口出しすんなや!」と柵越しに怒鳴った。凛花は「他になーんも勝てるとこないんやから、野球くらいせいぜい頑張ったら?」とさらに煽り、それから二人は柵を隔ててブスだのチビだのと罵り合っていた。

月明かりに、濡れた路面が水面のような照かりを見せていた。俯きがちに歩きながら千歳は太一のことを考えていた。凛花と翔大がそうであるように、千歳と太一の二人も生後間もない頃からの付き合いだった。同じ病産院に一日違いで生まれ、同室の母親同士が仲良くなったことを機に、保育園時代から今まで随分と長い時間を一緒に過ごしてきたが、喧嘩らしい喧嘩は思えば一度もしたことがなかった。ただ性格が違い過ぎて喧嘩にならなかっただけであろうが、そのせいか、お互いぶつかり合うことに慣れず、年々微妙に開いていく距離に居心地の悪さを感じながら今に至った。言葉を選んでいる時点である種の隔たりがあることにも気付かずに千歳は言葉を選び、常に先頭に立って千歳を引っ張ってきた太一は、自分の思うように進めながらもどこかで必ずブレーキを掛け、千歳の顔色を窺う節を見せた。一体いつ頃からか分からないが、そうやってお互い一歩引き合うことで均衡を保ってきた関係を果たして親友などと呼べるのか、千歳にはそれも分からなかったが、幼馴染み、親友、仲間という言葉にいずれも当てはまりながらどれもしっくりこず、家族のようなものとも言い切れない相手に付ける呼称はそれら以外になかった。ただ分かることは、凛花の言うように自分は太一が怖いのだ。正確には太一に見放されることが怖かった。いつしか自分の醜さに気付いてから、千歳は彼のあのまっすぐな眼が怖かった。そしてその怖さは、漠然と幼い頃から抱き続けてきた、いつか佐織に捨てられるのではないかという怯えが呼ぶ、心臓が震え出すような寒気に似ていた。

マンションに着くと、この前と同じ格好でゲートの植え込みに寄り掛かり煙草を吸う男がいた。男は千歳に気付くと、煙草を側溝に落とし、さっと立った。

「えらい、また遅い下校やな」

黒田は白シャツに濃紺のスラックスという制服姿の千歳を見つめ、左肩に掛かった、色褪せて平たく潰れたキャメルのランドセルを指差し「なんや、ほんまに小学生なんやな。それにしても、何というか似合わんな」と口元を緩ませた。この男との約束を今の今まで忘れていた千歳は、蜥蜴のように鋭く小さい目が細められた瞬間、自分の中に霧散していた訳の分からない熱が一塊りとなって喉の奥から溢れ出て来る感覚に陥った。喉の奥が、腹の底が熱い。これは、この熱は、本当にただの憎悪か。嫌悪か。

「めちゃくちゃぼろぼろやけど、あったわ」

千歳の険呑けんのんな目つきに、黒田は努めて明るい声を出して右手に持ったグローブを掲げて見せた。網の部分が所々破れかけたり、擦り切れたりしているそれは、もとの色が一応黒であったとは分かるものの、白っぽく変色していた。

「左利きなんか」

「両利きや。箸や字は右で、打つの投げるのは左。で、どうするんや」

「ちょっと待ってて」

千歳はそう言うと、帰宅して着替えを済ませ、ボディバッグを引っ掛け、マウンテンバイクを押しながら再び黒田のもとに戻った。場所を聞かれ、千歳は少し間を置いて「あんたの家の近く」と答えた。黒田は「別にええけど、遠いないか。他にないんか?」と不思議そうに言った。

「この辺の公園、みんな野球禁止で、空き地もなくなった」

「ああ、そうか。昔はどこでも出来てたのにな」

黒田は軽く顎を上げ、何もない薄闇の通路を遠い目で眺めた。佐織と同級生だったというこの男がこの土地の人間であることは当然であるのに、そのことが千歳にはなぜだか奇妙に感じられた。

千歳は黒田にマウンテンバイクとボディバッグを預け、軽いストレッチの後、奈良坂の頂上辺りまで走った。だいたいいつもは走り込みの後、キャッチボール、遠投、投げ込み、素振りで終わる。天気の悪い時や時間のない日などは、一人マンションの裏庭や祖父宅の庭でタオルを使ったシャドウピッチング、素振りなどをする。程度の差はあれ、皆やっていることだ。父親がコーチをしている太一や翔大は恐らくもっとしているだろう。

神社で少し休憩を取った後、奥の雑木林に入り適当な場所を探したが、至るところ水溜まりがあるのに加え、頭上の木々からぽたぽたと雨雫が零れ落ちてきた。黒田は「ここは周り気にせんでええけど、暗いしな」と更に奥を進み、駐車場に着いてしばらく思案顔をしてから「家の前でもええか」と呟いた。千歳に異存はなかった。

狭い小路を廻って入った、古ぼけた家屋の横並ぶ空間は、月明かりと各家の窓から洩れる黄味を帯びた灯りによって不思議な明るさに満ちていた。日中降った雨に砂利道はぬかるみ、所々水溜まりはあったが、足がぐらついてしまうほどの陥没はなかった。青い屋根瓦から軒下を伝い、微かな水音を立てて側溝に落ちる雫。藪のように節操なく生い茂る植栽は露を頂き、立ては絞れそうなほど雨を吸って濡れていた。圧倒的な緑の濃い匂いの中に、はっとするような甘く芳しい香りが漂う。黒田は「ここも水はけ悪いけど、まだましか」と言いながら、突き当たりの家の玄関先から、まるで雪崩でも起きたかのように道端にまで溢れ出た大量の鉢植えを足でどかしていた。細々とした鉢植えのなかには味噌の容器や牛乳パックのようなものも混ざっていて、ごみと花の区別がつかなかった。転がっていた三輪車やぼろぼろの台のようなものをブロック塀の隅に追いやる黒田の背後に、夾竹桃の花々が艶々と濡れていた。ああそうか。これは夾竹桃の匂いだ。

「おい」

黒田は柔らかい声で千歳に声を掛けた。千歳は反射的に頷き、ケースからグローブとボールを取り出した。黒田の位置から距離を取り、水溜まりのない足場を確認した。ならすように踏みしめると、ざりざりと鳴った。風はなく、じんわりと暑く感じられた。一端汗の引いた肌に再び滲み出す汗を拭い、千歳は息を深く吸った。一呼吸置き、掌の中でボールを何回か回してからセットポジションでの構えをとった。まっすぐ前を見据え、ゆっくりと左足を上げる。高く上げた左足を前へ蹴り出すように踏みだし、思いきり捻った下半身に腕が振られ、肩から肘、肘から指の先へと力が流れ、切られる。投げた球は鋭い音を立てて黒田のミットを弾き、湿った砂利の上に転がった。

「痛いな。何や今の。一発目はもうちょっと軽くこいよ。球速やばいな」

ミットから出した手をわざとらしく振って黒田は笑い「お前、もう完全なオーバースローやな。これくらいの時って若干サイドに落ちたフォームが多いやろうに。もう思いっきり良すぎて、なんかおかしなった」とボールに付いた砂を払って、千歳に投げ渡した。

「まあ、ええよ、好きに投げ。さっきは不意を突かれたっていうか。何となく分かってたけど、受けてみるとまた違うもんやな。でもまあ、もう分ったから」

失敗したと千歳は思った。剥き出しの頭にでも当ててやるつもりが、普通にミット目掛けて投げてしまった。いや、果たして自分はあの男の構える先を見ていたか。最初は適当に流して、油断させるのではなかったか。油断を誘って・・・そして?千歳は頭が真っ白になった。振りかぶる瞬間の圧倒的な気持ち良さ、試合でもそうはない、身体中を突き抜けてなお余韻の残る感覚に戸惑い、右の掌を眺めた。

「おい、大丈夫か?」

茫然と立つ千歳に、黒田は少し歩み寄り、窺うように身を屈めた。千歳は顔を逸らして頷き「次もうちょっと、下に構えてくれ」と言った。黒田は「分かった」とだけ言うともとの位置に戻った。その痩せて尖った背中を見て千歳は、つい先ほどまで確かに自分の中にあった熱の所在を見失っていることに気付いた。投げたボールが素直に相手のミットに収まる、ごく自然の動作に似た、すっきりと通るもの。この時胸に芽生えた感情の名前を、千歳は知らなかった。知らぬまま、ただ千歳は黒田の言う通り好きに投げることを選んだ。一球一球投げる毎に、黒田のキャッチは糸を引くようにスムーズになった。むせかえるような夾竹桃の甘い匂いを吸い込み、目を閉じる。雨落ち溝を叩く雫、軋むトタンの上を歩く猫の声、踏みしめる砂砂利の音に、自分の心臓の音。どこかの家から洩れ出るテレビの雑音や話し声を遠いものに感じながら、ただ、投げた。その度に自分の身体からぽろぽろと何かが剥がれ落ちていく気がした。

「善知鳥」 六へ

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