「善知鳥」 六

「善知鳥(うとう)」

少し早い梅雨入りなのか、週の半ばまで糠雨ぬかあめは続いていた。正午過ぎ、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中はじっとりとした蒸し暑さに包まれていた。アロマか何かの甘酸っぱい香りが重たげに漂っている。佐織は上半身を起こして大きく息を吐くと、手を伸ばしてローテーブルの上にあったエアコンのリモコンを取った。スイッチを入れるとリモコンをラグに放り、力なくカウチソファにうつ伏せた。椋二はその辺に落ちていた薄いシャツを佐織の腰に掛け、ジーンズのポケットから煙草を取ってラグの上に腰を下ろした。まだ息の整わない佐織は「私も」とテーブルの隅にあったメンソールの煙草を指差した。一本抜いて火を付けてから渡すと、クッションを枕に上を向いて吸い始めた。佐織は三四回ほど細い煙を吐くと「この前の日曜、西條君達に会ったん?」と訊いてきた。椋二は花弁型の灰皿を手に取り「ああ。何か知らんけど、どっかから聞いたらしくてな。ちょっと呑んだ」と言った。十数年ぶりに会った中学時代の友人の大半は、地元で結婚し所帯を持っていた。

「西條に聞いたんか?」

椋二と別れた直後に付き合い、一か月もしないうちに別れたという友人の名が佐織の口から出てきたことに少し驚いた。佐織は椋二の手にある灰皿に吸いかけの細い煙草を置き、身を起こしてシャツを肩に掛けた。

「違うよ。由佳に聞いたん。覚えてる?同じクラスの。もうあんまり会ったりせんけど、たまにラインかインスタでやりとりしてて。黒田君帰ってるって」

佐織は薄いタックシャツを羽織っただけの状態で立ち上がり、カウンターキッチンへ向かった。缶ビールを二本持ち、テーブルに置いて「由佳と西條君が結婚するなんて思わんかったよね」と笑った。椋二は「そうやな」と適当に答え、ビールを開けた。冷房が効いてきたのもあり、身体から少しずつ熱が引いていった。雨音は聞こえてこないが、雑に閉めたせいで出来たカーテンの隙間から覗く空は重苦しい灰色をしていた。それでも生成色きなりいろのカーテンと白い壁で囲われた部屋の中は薄明るく、物の輪郭を浮かび上がらせていた。ソファの下に散らばっていた下着やショートパンツを拾い上げ、椋二の目の前で佐織はゆっくりとひとつずつ身に付けていった。色白の形の良い豊かな乳房、ほっそりとした腰からしっかり肉の付いた上向きの尻にかけての曲線は、記憶に残る華奢な少女の頃よりずっと淫靡な匂いを纏っており、こんなものを平気であの息子に晒しているのかと思うと、椋二は再び点きかけた欲望の火に水を掛けたい気分になった。

「なあ、お前いつ結婚したんや」

椋二の唐突な問いに、ソファに座り、乱れた髪を手櫛で片方の肩に流していた佐織は「えー?今、その質問?」と笑った。そして「十九の時」と笑みを引っ込め、ビールを呑み始めた。

「高校からの彼氏と出来婚。で、六年後に離婚。よくある話やわ」

「何で離婚したん」

ソファに肘を持たせ掛け、佐織の顔を仰ぎ見ると、彼女は意外そうに瞬きをした後、「今日は、なんかえらい訊いてくるんやね」とくすくす笑った。化粧気のない顔は学生時代と変わらなかった。

「別に話したないんやったらええよ」

「ううん、全然。これもよくある話。浮気。旦那の」

椋二は「ふうん」とだけ言った。確かに世間の至る所に腐るほどある話だった。

「別に浮気の一つや二つ、良いんやけどね。実際何人ものキャバ嬢とかクラブのママみたいなのと遊んでたみたいやし。職業柄しょうがないんかなって。半分諦めてたりして」

「何、旦那、ホストでもやってんの」

「ううん。美容師。お店、ミナミの繁華街にあるから、そういうお客さん多いんよ。売上の成績も関係するみたいやしね、まあ客と遊ぶくらい良いんやけど。でもあいつ、チーフディレクターになった頃、お店の女の子に手、出したんよ。入ったばっかの、シャンプーとかしか出来ひん子。十八くらいの若い子に、本気になって」

穏やかな口調ではあったが、「本気」と言ったところで佐織は片頬を引き攣らせていた。自分で聞いておきながら椋二は後悔をし始めていた。

「もうむかついて、むかついて。でも、千歳がいたから。私、どうしてもあの子を母子家庭の子っていうのにしたくなくて、別れたっていうあいつの言葉信じてやり直したけど、そんなの嘘で、隠れてまだ付き合ってた。ほんと何度も殺してやろうかって思ったけど」

ふふ、と佐織は吹き出し「こんなの男が聞いてて良い思いしいひんよね」と椋二の顔を覗き込んだ。椋二は軽く横に首を振り「俺から聞いたんやから」と口の端を上げ「何で殺さんかった?」と訊いた。

「何度も夜中包丁握ったよ。でもやっぱり、ぎりぎりのところで子供の顔出ちゃうんよね。私がいなくなったら、って。それにあんな奴らのせいで人生棒に振るのも馬鹿馬鹿しいし。最後はちゃんと理性が勝つんやね、人って。今思えば、よく冷静になって離活出来たなあ」

「りかつ?」

「離婚活動。泣き寝入りなんか腹立つでしょ。千歳の為にも自分に優位に離婚出来るよう、頑張ったの。二人が会う日を割り出して、ピンポイントで探偵社に調査をお願いしたら、一日で証拠取れちゃった。それでも三十万はしたけど。で、紹介された弁護士にそれ持ってって、相手の女に慰謝料請求したら、親が二百万払ってくれて。旦那には慰謝料と養育費請求したけど、あいつ、私が離婚切り出すと別れんの嫌やって泣いて謝ってきて、しばらくまともに話出来んくて困ったわ。すーぐエッチに持ち込んで誤魔化そうとするし。もう離婚って何かすごい疲れるんよね」

佐織は当時を思い返したのか深々と溜め息を吐き、「せやからもう二度としたくない。私には千歳がいてたらええの」と笑い、「黒田君は?何で離婚したの」とソファに寝そべりながら訊いてきた。

「私が話したんやから、いいでしょ」

「ええけど、あんまり面白いもんとちゃうぞ」

「私のだって面白くないやん。普通やわ」

何を以って普通と言うのか椋二には疑問だったが、今聞いた佐織の話と自分の離婚に至った話を、同じようにごく有り触れた夫婦のごたごたと括るには違和感があった。

「俺のは・・・まあ、若過ぎたのもあるけど、俺がちゃんとした夫にも、父親にも、なれんかったからやろうな」

椋二の額の裏にちらちらと赤い色が点滅し、米噛みを流れる血管が微かに脈を打つ。目を伏せ、額に手を置いた椋二に佐織は「自分はちゃんとした親やって思って疑いもせえへん親より、ずっとましやと思うけど」と言った。その言葉に棘を感じた椋二は、彼女の実家が市内でも一等地にあたる雑司町ぞうしちょうにあり、厳格な両親との不和を理由に家出を繰り返していた当時を思い出したが、気付かない振りをして「そうやろか」と流した。

「うん。それに、黒田君、子供の扱い上手いやん。あのちーちゃんが懐くなんてよっぽどやから!」

椋二はビールを吹きそうになった。母親から見るとあれが懐いているように見えるのか。

「全くそうは思われへんけど」

「だって、あの子、男の人に、っていうか他人に自分から口きくことなんかないんやもん。自分の父親にもそうやねんから、うけるでしょ」

佐織はからっとした笑い声を上げたかと思うと、「せやのに自分からキャッチボールしてほしいとか・・・やっぱり淋しかったんかな」と声を落として呟いた。椋二は佐織のおよそ実情とはかけ離れた勘違いを笑う気にはなれなかった。むしろその勘違いに自分も身を置きたい気持ちになり、佐織の眼の中に映る自分とあの少年の姿を夢想し、刹那的に芽生えた悦びと現実の虚しさのせめぎ合いに戸惑い、返すべき言葉を見失っていた。椋二は仰向けになって頭に当てていた佐織の手をそっと取り、綺麗な曲線を描く額を撫でた。そうだ。あれは悦びだった。掃き溜めのような薄暗く汚れた路地に立ち、まっすぐこちらを見据える少年の姿を目にした時、椋二は今までもやに包まれていた自分の中の感情が明確に現れ出すのを感じた。悦びとはこういう形をしているのか、と。

佐織の髪の毛を撫で上げながら、椋二は目の前の額と同じ形をした額を持つ少年の、薄茶色の大きな瞳、高い鼻梁、固く閉じられた唇を脳裏に描き、作り物のように精巧なそのひとつひとつがゆっくりと花開くように綻ぶ幻覚を見た。潤むその瞳に、弾む息遣いに、魅入られて動けない自分とそれを荒々しく貪る獣のような自分との間で、甘い夢想は現実の肉欲の前に掻き消えては蘇り、それは時折激しい脈動となって身体中を駆け回った。再び剥いで露わにした佐織の乳房の尖りを吸い、まだ充分に湿り気の残る陰部に猛りを突き入れながら、椋二は自分が触れている場所から、少年の通っていった粘液のような足跡を感じ取り、今、自分は彼と一体となってこの肉体を犯しているのだと思い、果ては少年の美しい脚を引き裂いて犯す妄想までをも引き起こすに至った。それは心臓が勃起しているような異常な興奮を生み、熱の奔流となって佐織に痛々しい悲鳴を上げさせ、椋二に臓腑が磨滅するような眩暈を与えた。

子供が三時半に帰ってくるというので、椋二は三時前には佐織のマンションを出た。佐織は「どうせ夜会うんならそのまま居れば?」とやや掠れた声で言ったが、「これ以上嫌われたくない」と苦笑して帰った。

雨は上がり、灰色の雲間からは薄日が射していた。長屋の路地は週明けから続く雨に泥土となっていた。今日は塀の向こうの駐車場を使うかと考えていると、裏に通じる小路のほうから軽いクラクションの音とともに軽トラックが近付き、長屋の入口に寄せてきた。

「やっぱり、椋にいや。ほんまに帰ってたんや」

運転席の窓から顔を出した小太りの若い男はそう言うと、「俺や俺。信之や」とにやりと笑った。薄く剃った眉にちょろちょろと生えた顎鬚を除けば、子供の頃と少しも変わらないガキ臭い笑顔に、椋二は「分かっとるよ、お前変わらんな」と窓に手を掛けた。車体には塗り直したばかりなのか、〈酒井建設〉の文字が黒々と光っていた。

「爺ちゃんから聞いたんや、黒田の爺さん亡くなったんやてなあ。俺、よう釣りに連れてもろうたん覚えてるわ。俺、先週の日曜まで十津川の嫁さんの実家帰っとってさあ。こっちも葬式なんやけど、クソみたいな田舎の古臭い家やから、何から何までとにかく大層で、えらい大変やったわ」

椋二より二つ下の酒井の孫の信之は頭に巻いたタオルを取り、「まあそんなんどうでもええ、椋にい、線香上げさせてくれ」と言って、脂汗の滲む顔を擦った。椋二が、仏壇を生前に処分し海洋散骨の埋葬を選んだ祖父の意向を手短に話すと「黒田の爺さんらしいわ。ほんなら俺はこれから海行くたんびに爺さんに会えるんやな。ええな、俺もそうしたいわ」と笑った。

「わざわざ来てくれたのに、すまんな。そうや、お前、釣りすんのやったら、残ってる釣り具持ってってくれ」

「ええんか」

「かまんよ。俺、今、北海道におるから持って行くのも大変やし、売るか捨てるしか」

「そうか。北海道かあ。ええなあ。今度家族連れて遊びに行くわ」

昔、どこへ行くのにも鼻を垂らして後を付いてきた信之の社交辞令に、椋二はそれなりの歳月の重みを感じ、「いつでも来いよ」と白々しく答えた。軽トラを路肩に止め、信之は地下足袋を脱いで土間に上がり「すっからかんやなあ、椋にい、もうすぐにでも出るんか?」と言いながら居間の畳にどかっと座った。椋二は「まあな」と曖昧に答え、奥の風呂場と便所の間にある物置から釣り具の一式を引き出し、信之の前に置いて「なんやったら全部持っていけよ」と言った。椋二は二階の四畳半の和室を埋める夥しい書籍の山を思い出し「釣り関係の本も要らんか」と尋ねた。信之が「ほんなら貰うわ」と言ってくれたので、椋二は二階から二十冊ほどの書籍を持って降ろした。

「椋にいこそ、全然変わらんなあ。俺なんか学生ん時より二十キロちこう太ってもうて」

信之は酒井の爺さんそっくりの仕草で自分の腹を撫で、黄ばんだ差し歯を見せて笑った。

「幸せ太りってやつやろ。俺には縁のない話や。羨ましいよ」

「よう言うわ。こんな真っ昼間から風呂上がりのええ匂いさしてよ。爺ちゃん、言うとったぞ。あいつ、帰ってそうそう女の匂いさしとるって」

にやけた笑みを浮かべる信之は釣り雑誌を適当に選びながら「爺ちゃん、あいつの病気治ってへんやって。俺ら、みぃんな椋にいに教えてもろたもんなあ。なあなあ、北国の女ってどないなん?ええの?せやから帰ってこんかったんやろ」と一方的に捲くし立てた。

椋二は中学に上がって間もない信之が頻りに自分の性体験の話を聞きたがったことを思い出して苦笑し、「ええも何もないって。向こうでは金稼ぐことしか考えてへん」と言った。すると今度は金の話に食いつき、「何しとるん」「それってなんぼになんの」などと訊き、「ああ、俺役所行かんならんかったんや」と刈り上げた後頭部を掻いて出て行った。

信之の軽トラックまで釣り具の入ったケースや本を運んでやり、「そういや、八条町の事故のやつ大丈夫なんか」と尋ねた。

「おう、あれな、一応話着いたわ。親父が警察署の本部長の名前出して頑張りよった。なんぼかは払わんならんけど、吹っ掛けてきよった額の十分の一や。ほんなら椋にい、また行く前に一回呑もや。俺去年法蓮町に家建ててん。迎えに来るから来てや」

「ああ、せやな」

表の通りまで信之の軽トラを見送った椋二は、家に戻るとすぐ二階に上がり、四畳半の和室の書籍を整理し始めた。先日ざっと見た限り、古い文学全集や仏教美術大全、寺社仏閣の目録類は、黴を取れば、餅飯殿もちいどの商店街にある古書店辺りがまあまあの値を付けてくれるだろうと踏んでいた。古本屋に大量に出回っていそうなベストセラー小説やミステリー、時代小説の文庫本などは恐らく二束三文にしかならないか、状態によっては引き取りを拒否される可能性もあるので、新大宮のブックオフにでも持って行くしかないが、たとえただでも引き取ってくれたら御の字だった。

祖父一人の侘び住まい、荷物などたかが知れていると葬儀会社の遺品整理業者への紹介を断ったのだが、いざ押入れや古箪笥、物置を開け、畳に引き出して並べてみると、よくまあこんな狭い長屋に物が入っていたなと呆れるしかなかった。椋二が中学二年生の夏まで使っていたグローブやバット、軟式ボールなどがまとめて入れられた洋品店の大袋を見つけた時は、捨てるという発想がないというより、単に物そのものの存在を忘れているだけかと思った。六畳の寝室と襖ひとつ隔てた四畳半の部屋の半分を占める本棚と、そこに納まり切らずダンボールに詰められた本の山には、老眼鏡を掛けて新聞を読む祖父の姿くらいしか覚えがない椋二には意外という印象しかなく、古書の知識に乏しい身には些か面倒であった。粗方片付いた他の部屋に比べて、手を付けるのが遅れた理由はそんなところであったが、擦り切れた畳に腰を下ろしてみると、この部屋がかつて自分の寝置きしていた場所であったというのも原因のひとつにあるような気がした。

椋二は手前のダンボールに入った、ハードカバーの本から手を付けた。一見しただけでは内容の推察が難しい類の本に、溜め息が出た。『心象風景のなかの眼』『魔術的跛者』『海をおよぐ児』『欠損のディスクール』などと書かれた学術書らしい厚みのある本はいずれも四畳半の書斎の中では比較的新しい部類で状態も良かったため、餅飯殿の古書店行きとした。肉体労働で生涯を終えた祖父が一体何を思って安くはない小難しい本を手にしたのか、椋二には見当もつかなかったが、酒井の爺さんの話によれば祖父はもともと「わしらとはちゃう大卒のインテリ」で、三条川崎町にある製紙会社を営む実家の跡取りであったというから、椋二の知る日焼けした染みだらけの腕を持つ祖父とは違う、全く別の顔をした祖父が生き、その人生があったのだという感慨に結局のところ落ち着いた。卒業後すぐに会社が倒産し、社長であった父親が愛人と夜逃げをしたため、残された多額の借金と精神病を患う母親を一身に背負わされ、親族の反対を押し切って在日中国人の娘と結婚した半生と、倹しい暮らしながらも大事に育てた一人娘が家出をし、どこの馬の骨とも分からない男との子供を押し付けて出奔し、今度は老体に鞭を打って育てたその孫に出て行かれるという残りの半生の、一体どちらが祖父に信心を捨てさせ、哲学書を漁らせ、最期は海へと向かわせたのか。あるいは全ての辛苦の結果なのか。それとも、生まれ持った業のなせるものなのか、椋二には一切推し量ることすら許されない気がした。

椋二は所々黒黴のこびり付いた窓ガラスを開け、灰色の空を見上げた。すぐ目の前に迫る向かいの棟の青い屋根瓦、階下の狭い路地を眺め、ここから早く出て行きたくて仕方なかった当時を思い出した。四畳半に詰まった思春期の絶望と熱病。そこに祖父の想念が渦巻き、物理的な重さ以上の何かが古畳を、ぼろぼろの砂壁を圧迫しているようだった。椋二はふと、仏壇を処分したように、祖父はこの書籍類も処分するつもりでダンボールに詰めていたのではないかと思った。何もかも捨てて身ひとつとなって死に、誰にも看取られず、誰の手も煩わすことなく消えていくことが祖父の最期の望みであったのなら、今、自分がしていることは一体何なのだろうか。これは自己満足の罪滅ぼしですらないのだ。

椋二はダンボールの箱を結局そのままにして隅に追いやり、文学全集を一冊ずつ取り、黄ばみや黴の付いた側面に紙やすりを掛けた。作業を続ける間も、白地に題名のみというシンプルな表装の学術書にある〈欠損〉という文字が意識に残り続けた。

午後七時を回ったところで椋二は慌てて台所に降り、カップラーメンの湯を沸かした。六畳の台所には劣化の激しい簡易テーブルと椅子一脚、油塗れのガスコンロに薬缶と変色した雪平鍋が一つずつあるだけだった。椋二は沸騰を待つ間、椅子に腰掛け所在なく窓側の流し台やガスコンロの並びを見つめ、そこに立つ祖母の姿を描いた。百四十センチくらいしかない小さな身体を丸めて、洗い物をする姿。フライパンを振る姿。テーブルに広げた弁当箱に菜箸で慎重におかずを詰める姿。その弁当箱を「いらん」と突き返した時の間の抜けた顔。その翌朝も弁当箱はテーブルにあり、祖母は窓を向いてフライパンを握り、たどたどしい鼻歌を口ずさんでいた。・・・ザイナァァ、ヤォユアンティィ、ティーファン、イョウウェイ、ハオクーニャン・・・澱のように沈んでいた記憶の断片に頭痛を覚えた時、薬缶が鳴り、同時にテーブルに置いていたスマートフォンが震動した。椋二はコンロの火を止め、軽く頭を振って着信に出た。

《リョージ忙しい?》

スマートフォンから聞こえてくる軽く跳ねたような響きを持つ声に、椋二は過去の幻影が薄らぐどころか確かな音色を持って目の前に広がっていくのを感じた。見渡す限りの草原、吹き抜ける風、咽かえるような青葉の匂い、響き渡る艶めかしい抑揚のある唄声。夕方、居間のテレビから『草原情歌』が流れると、おたまを片手に祖母が玉簾を掻き分けて顔を出す、その時の姿がそこにあった。

《ウェイ?リョージ?》

「ハオ、ごめん。どうした」

《女?》

前後の文脈を全く無視した唐突すぎる語法はこの男の専売特許だが、この《女?》には椋二も意味が分からず「は?何や?」と返した。

《今、僕が出た時に間があったことの理由と、一週間以上経っても帰ってこないことの理由》

滑らかに唄うような口調で言うと浩宇は黙り込み、椋二の返事を待っていた。椋二は聞こえないように溜め息を吐くと、「思ってたより遺品多くて時間掛かってるだけや。そんで、一つ目の理由やが・・・ちょうど今、お前のこと考えてたからびっくりしただけや」と言った。浩宇は《真的マジ》と吹き出し、《リョージでも故郷に帰ると情緒的になるんだ、驚いたよ。で?いつ帰るの?女は?》とまた始めの言葉に戻った。

「女から離れろや。帰るのは・・・どうやろ。来月には帰れるやろ」

《来月?頭?上旬?》

「知るか」

《やっぱり女だ、ねえどんな女?》

「切るぞ」

《子供は?会ったの?》

本当に唐突すぎる奴だと思った。こんな奴に情緒がどうとか言われたくもないが、彼に行間を読むなどということを求めること自体あほらしいと思い、「まだや。それが理由や、分かったか?」と開き直った。浩宇は真面目くさった声で《分かった。僕は十分理解したよ。ところでリョージ、来月はニセコで仕事だからさ。女でも子供でも連れて来たらいいよ》と言い、《で、これは重要なことだけど。君は僕の何を考えてたのさ》ときた。椋二はまだ芯のぼやけた頭の中にニセコの文字を加えながら、「唄ってくれや、ハオ。あの歌」と呟いた。

「善知鳥」 七へ

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