「善知鳥」 七
先週に続き今週のはじめも雨だった。朝の天気予報では平年より一週間早い梅雨入りを告げていた。窓ガラスに付いた雨滴に外の景色が滲み、若草山に濡れ色の幕が垂れ掛かっていた。昼の中休み、蒸し暑い教室の窓際で、千歳は週末にあった試合の動画を見ていた。土曜日は奈良市スポーツ少年団連盟所属の二十四チームが参加する高円杯の開会式が鴻ノ池球場で行われた。一回戦はシードのため、開会式後は、二回戦の相手となる第一試合の視察をする小堀と高階ヘッドコーチ以外は奈良坂のグラウンドに戻り通常の練習を行った。日曜日の第二回戦は九条町のグラウンドで大安寺ブルーサンダーとの対戦だった。先発を言い渡されたのは当日だった。試合は五対一で勝ったが、内野守備の連係ミスが目立ち、監督コーチ陣の顔色は冴えなかった。厚い雲が垂れ込める鴻ノ池球場のフィールド、手前に球審、太一、相手チームの打者、その奥向こうのマウンドに立って投球する自分をスローで繰り返し見ては、高階コーチの言う「余計な力が抜けてる」フォームを感覚ではなく意識して掴もうとした。消音にし、内野陣の「まっすぐ走ってんぞー」「いいよーいいよー」「ナイスピッチー」などの掛け声、コーチ陣の発破を掛ける声や観客席の歓声を遮断すると、掌にボールの、足先に湿った土の感触が蘇り、何も動かしてはいない腕が空気の塊りのようなものに圧され、振り切られた後のように脱力していった。黒っぽい土のざらつき、草の匂い、雑音の一切が消えた中で響く、自分の息遣いと心臓の音、聞こえるはずのない雨雫の滴りまでも感じながら投げた時の景色ひとつひとつを浮かべてみても、後方を守る仲間や相手打者、構える太一の姿はどこか遠く霞み、代わりに薄闇に溶け込む暗い色合いのTシャツに破れたジーンズ姿の男が現れた。
不思議な男だった。子供のように見える時もあれば、ひどく老けて見えることもあった。大概口の重いほうだと自認する千歳が呆れるほど無口だった。訊いてもいないのに自分のことを話し出し、好きな食べ物や玩具、音楽、遊びなどあれこれ訊いてくる、佐織が引き合わせたこれまでの男達と違い、自分自身のことはほとんど何も話さず、また、千歳に何かを訊くこともなかった。例外は野球に関することで、鼓坂北小出身の少年団のOBに当たるという男は、練習の前によく監督やコーチの指導方法、方針、その日の練習で注意されたことなどを細かく訊き、千歳が短い言葉で返すと、「分かった」と頷いた。そうして午後八時過ぎのランニング、投げ込みなどの自主練習に淡々黙々と付き合う男の真意と、それを言い出した自分の本意に目を背けたまま、一週間が過ぎ、以前何者かも分からない黒田という男の存在は、近過ぎることもなければ遠過ぎるということもなく、張り巡らされた膜のすぐ向こうをただ揺らめいていた。
千歳は息を吐き、画面から目を離して窓にもたれ、後ろの席で本を読む拓磨の頭頂部を見た。寝癖でおかしな形の渦を巻く旋毛と、その下の分厚い本を眺め「それ、面白いん?」と彼の机に寄り掛かり、『メルヴィル著・マーディ・上』と記された本を取り上げた。顔を上げた拓磨は「返せや千歳」と素早く引っ手繰り、ずれ下がった眼鏡を直した。そして「お前には面白ないわ」と返ってきたその時、教室の入口から廊下にいた何人かの男子や女子が口々に驚いたような声を上げた。その上擦った声と、廊下に響く隣の教室のざわめきに、教室に居た児童全員が一瞬口を閉じ、続いて「何、何?」と騒ぎ始めた。一人の男子が、千歳のほうを見ながら妙に嬉々とした高い声を放った。
「二組、大変なことになっとるぞ。太一が佐久間さん殴って泣かしたらしい」
千歳はこの時、生まれて初めてかもしれない眩暈を覚えた。鈍器で頭を殴られたような衝撃に、一瞬教室が歪んで見えた。拓磨の机に寄り掛かったまま、千歳の空白の頭に今朝の太一の、どこかすっきりとした顔で昨日の試合を振り返る様子が浮かぶ。今日は室内練習に参加することを伝えると、「昨日完投しとるんやから、ほどほどな」と目尻に皺を寄せて笑った顔が過り、続いて昨日の試合後、背後に座って千歳の肩にアイシングを固定する彼の、間近で見た気難しい顔が蘇った。その太一が何だって?
周囲の雑音が遠のく中、「千歳、はよ行けや」という拓磨の呟きだけが耳に入り、千歳は席を離れた。教室を出たところで予鈴が鳴り、千歳は少しの逡巡の後、二組の教室に入った。半数以上が着席し、騒ぎの収まった様子であったが、千歳に気付いた女子の一人が「あっ」と声を上げ、再びざわめきが広まった。教室を見渡すも太一の姿はなく、数人の女子に囲まれ、机に突っ伏した凛花の後姿が目に入った。彼女の傍に居た女子の「凛花ちゃん、千歳君来たよ」という声に、千歳は時計に目をやりながら彼女の座る前に回ってしゃがみ、「大丈夫か」と言って顔を上げさせた。彼女の眼は微かに赤く、長い睫毛が濡れて重そうに瞬いた。頬に張り付いていた髪の毛を払ってやると、細かい線の跡がくっきりと付いていた。千歳は凛花の顔をじっと見つめ「どこ殴られた」と訊いた。彼女はふうと息を吐いた後、ゆっくり首を横に振った。その様子と、傍の女子の一人の「凛花ちゃん、太一君にひどいこと言われたらしいんよ。何言われたか、うちらも居てへんかったから知らんけど」という言葉から、千歳は「殴って泣かした」の「殴って」はクラスの男子の勘違いか、もしくは誇張かと思い安堵した。けれども、「泣かした」ことはどうやら事実のようで、千歳は本鈴の鳴る中、漏れ出る溜め息を飲み込んで凛花の頭を撫で、「あいつの言うことは気にすんな」とだけ言うと教室を出て行った。誰もいなくなった廊下をしばらく見つめ、一組の教室に入った。黒板の前にはすでに担任の垣内が教科書を手に立っていて、千歳の姿に気付くとその茫々の眉毛を少し上げ、席に着くよう頭を軽く傾げさせた。
雨は小康状態となったが、いつ降り出すか分からない空模様は続いていた。千歳は手に持ったビニール傘の先でアスファルトの地面を何度か突き、「なあ」と前を歩く太一に返事を促した。太一は首を少し動かしてこちらを見、「せやから、お前は関係ないって言うてるやろ。しつこいぞお前」とまた前を向いて足早に歩いた。千歳もその歩調に合わせながら、「ほんまのこと言えや」と先ほどから繰り返していた同じ内容の言葉を口にした。
五時間目の授業が終わってすぐ、呼び出された太一の母親と太一が居るという校長室に半ば無理矢理入った千歳に、二組の担任の堀口は驚きながらも落ち着いた口調で「どうしましたか。伊槻君には関係ないことですよ。今はお話し中なので出て行ってね。もうすぐ帰りの会ですよ」とやんわり言って追い出し、校長室の前で突っ立っているところを職員室から教室へ向かう途中の垣内が見咎め「そんな、心配せんでも大丈夫やから」と苦笑し、渋々といった表情でことの説明をし始めた。
クラス内でいじめがあり、その主犯格を凛花だと決めつけた太一が彼女を呼び出して問い詰め、二人は言い合いになったという。けれどもそれは太一の完全な誤解であり、いじめの事実自体なく、今はそれを認めて反省し、謝罪したいと話しているという。垣内は「高階君はほら、君はよう知ってると思うけど、真面目でまっすぐ過ぎるところがあるから、こう思ったらこうって思い込むんやろうね。自分がなんとかせんなって気持ちが強いのはええことやけど。まあ悪気はないんやろうし、相手のため思ってやってるんやろうけど、今回それが空回ったんかな」と言い、「誤解やいうても、その、話が話やから、このことは言い触らさんように。まあ君は余計なこと言わんと思うけど」と要らぬ言葉を付け加えた。
当の太一と凛花も、垣内とほぼ同様のことを言い、二人は下校時、千歳の前で「ごめんな」「もういいよ」と笑い合ってさえいた。傍に居た太一の母親はあからさまにほっとした様子で「もう、ほんまにごめんね、また何かあったらおばさんに言うて。ぶん殴るから。ほんなら、お母さん戻らんなあかんから。じゃあね、千歳君、またご飯食べにおいで」と早口で言うと、校門の脇に停めた軽自動車に乗り込み早々と出て行った。凛花は転害門の交差点で「じゃあね、千歳君。練習頑張って」とにこやかに手を振り、国道の坂を上がって行った。太一は太一で、「今日、俺、室内練習行かれへん。母さんが父さんに今日のこと連絡したら、さっき練習参加させんってラインあったらしくて。せやから、お前だけで行ってくれ」とだけ言うと、さっさと坂を下り始めたのだった。
祖母がたまに口にする「狐に抓まれた」状態というのはこういうことなのかと、千歳は思った。中休みの終わりにクラスの男子の一人が興奮して言った言葉を耳にした、その時以上の訳の分からなさに襲われていた。二人とも、自分は関係ないという。そしてもう終わったとばかりに背を向ける。そんな訳があるか。それで納得など、到底出来るものではなかった。千歳は自分の言葉の足りなさを呪いながら「なあ」と「ほんまは何があった」を繰り返した。太一は直線道路に入った辺りで歩くペースをやや落とし、苦笑いを浮かべて「お前って、こんなしつこかってんな」と言った。
「前に言うたやろ。佐久間が女子トイレで奥田閉じ込めてどうのってやつ。覚えてるか?」
「覚えてるよ」
「あれさ、俺の勘違いやってん。間違えたかわざとかは分からんけど、ほんまに奥田が勝手に入ってきて、女子の一人に、何かその、嫌がるようなちょっかい出したから、佐久間が代わりに怒ったって。それを俺が勘違いして・・・お前にもひどいこと言うたな。偉そうに。ごめんな。せやから、俺さ、何というか、あかんな」
太一は気の抜けたように小さく笑った。
「何があかんねん」
「全部や。こんなんやから、チームの皆にも信頼してもらえへん。昨日みたいな大事な試合であんなミスが出るんもそのせいや。キャプテンなんてほんま向いてへん」
「何言うてるんや。お前らしくもない・・・」
不意に洩れ出た自分の言葉を反芻し、千歳はそれ以上何も言うことが出来なくなった。太一はまるでそれを見越したかのように太い眉を寄せて立ち止まり、じっと千歳の目を見た。
「俺らしいって何や。お前に俺が分かんのか」
底に溜まって眠っていた綿毛のような棘が、一斉に起き上がって突き刺さるような、鋭いのか鈍いのか分からないじわじわとした痛みが胸に広がった。
「お前さ、昨日、誰に向かって投げてた?」
「・・・お前に決まってるやろ」
何とか絞り出した声に、太一は深く溜め息を吐いた後、「そらそうや。すまん、変なこと言うた。今日はちょっと、あかんわ。気にしやんといてくれ」と言って自分の首の後ろを二・三回叩くと、再び歩き始めた。また数ミリ伸び始めた五分刈りの頭を見つめ、千歳はじりじりとした焦りを感じながら、やはり言葉は出なかった。
「今日は家で一人反省会や。ちょうどええ機会や。次の三回戦のためにもちょっと間、置きたかってん。明日からはまた、キャプテンに戻って、しごいたるから。覚悟しとけ」
最後少しおどけた調子で声を張った太一は足を止め「じゃあな」と言った。千歳はそこで初めて自分のマンションに着いたことに気付いた。植え込みの所で固まって動かない千歳に、「ごめんな。今日俺、どうかしてたんや。忘れてくれ」と細い一重の目を一層細めて笑った。その顔を見て千歳はふと、こいつは本当に自分がエントランスに入るまでずっとこの場所で見ているのだろうかなどと思った。お互いまだ背も低かった時分、この身に起こった誘拐未遂の被害が二人の間で振り返られることはなかった。もう忘れて消えかかっていた記憶とともに唐突に、同じように忘れているはずの太一はずっと気にしていたのではないかと気付く。気付いた時にはもう、千歳はそのことを見て見ぬふりをしてきた己に行き着き、思考を切った。額から汗が落ちる。太一に背を向け、千歳は「じゃあ」と言ってアプローチを進んだ。忘れてくれ?太一がそう言うのならそれでいいのか?全く腑に落ちないが、かといって彼らの言うことのどこにも自分に都合の悪いことはない以上、どこに食い下がる必要があるのかとも思った。二人が関係ないと言うのならそうなのだろう。これ以上余計な気を回さないで済むではないか。千歳はそう考えようとし、そしてもう、何かを考えるということに倦んでいる自分に気付いた。深く息を吸って、吐いた。雨の蒸れた匂いにつんと鼻を突く青臭いマリーゴールドの花の香りが混じっていた。雨に打たれ続けたせいで、どれも力なく俯いていた。エントランスの自動扉をくぐり、扉が閉まりかけた時、千歳はゆっくりと後ろを振り返った。濡れて色の濃くなった煉瓦造りのアプローチの先、そこには、植込みの草木に半分身を隠すようにして立ち、苦悶の表情を浮かべてこちらを見つめる太一の姿があった。
一条での室内練習後、日野コーチの車で雑司町の祖父の家まで送ってもらい、夕飯を食べてすぐ祖父の車で自宅に戻った。祖母は「もう少しゆっくりしたらええのに」と門扉まで出て口を尖らせ、祖父はというと、仏頂面で運転しながら「練習もほどほどにしとかんと、勉強が疎かになるぞ。今はそれでええかも分からんが、来年中学校で躓くようになったら、困るやろう。塾の話はどないなった?お前はもともとの出来はええのやから、やって無駄いうことはない。それから、お母さんにもうちょっと早く帰るよう、お前から言いなさい」といつもの小言を繰り返していた。
荷物を家に置き、ボディバッグとマウンテンバイクを担いでエントランスを出ると、ゲートの植え込み前に黒田の後ろ姿が見えた。黒田は千歳の白いユニフォーム姿を見て「今日、練習あったんか?」と言い、千歳が「室内練習に行った」と答えると「昨日試合やったんやろ?一日くらい休養日作ったらええのにな。今日はやめるか?」と訊いてきた。千歳は急に苛々と込み上げる感情を覚えたが、「平気や、そんな投げてない」と声を低めて言った。
いつものように奈良坂の神社まで走り、雑木林のぬかるみを歩いていると、大粒の雨雫が樹木の先から落ち、次第に林全体にぽつぽつと木々の葉を弾く雨音が響いた。
「降ってきたな」
黒田はそう呟くと、濡れた頬を右手の甲で拭い歩みを速めた。暗い空向こうから雷の遠鳴りが聞こえてきた。駐車場に出た辺りで、大粒の涙のような雨は突然、これまで堪えてきたものを一気に解き放ったような土砂降りとなった。叩きつける雨は周りを仄白く煙らせ、千歳は目を眇めて黄色のマウンテンバイクを押す黒田の後ろを走った。狭い小路を抜け、民家の並ぶ通りに入り、すぐ手前の植栽が犇めき合う軒下に辛うじて身を置いた。砂利道は昼間に降った分の水溜まりを洗い流すように雨水が流れていた。通り雨、ゲリラ豪雨の文字が浮かび、千歳はユニフォームの襟首を引っ張って顔を拭った。自転車を家の軒先に停めた黒田は、「こっち。中、入れ」と指先だけ動かして手招いた。雨は時に横殴りとなり、なすすべなく千歳は突き当たりにある植栽も簾も何もない空き家のような体裁の家に向かった。
玄関に入ると木の湿った匂いがした。膝より高い上がり框を珍しく思い、少し悩んでからそこに座った。先に中へ入っていた黒田が奥から出てきて「そんなとこ座ってんと、入ったらどうや」と微かに笑った。
「靴下濡れてるし、ユニフォーム汚いからここでいい」
千歳はもう脱ぐのも面倒なほど重たく濡れそぼったアップシューズの足先を指差した。
「こんなボロ家、土足でも構わんぞ。そのままやったら風邪ひくやろ。ほら」
黒田が投げて寄こしたタオルを反射的に受け取ってしまい、千歳は渋々アップシューズの濡れて固くなった紐を解いた。何もない畳のスペースを過ぎ、入るよう促された奥の部屋の前に立った時、タオルを被って頭を拭いていた黒田は、「風呂入れ。風邪引いたら大変や。ボロ家でも一応シャワーくらいはあるから」と言った。
「は?別に大丈夫や。これくらい」
「週末も試合やろ?エースが体調不良やったらどうしようもない。まだ止みそうにないし」
波打つかのような雨垂れが覆う戸口の磨りガラスを見やり、黒田は煙草に火を付けた。煙を千歳と反対のほうにふーっと吐くと、「その奥の戸、開けて左が風呂場。右が便所。脱衣所いうても今は何もないから、これに脱いだもん入れて」とスーパーの袋を渡してきた。
「この前着替え欲しくて買っといたやつがあるんや。サラやったらええやろ」
「先に自分が入ったら」
肌に張り付いたTシャツにも頓着せず煙草を吹かす男にそう言ってやると、口の端を少し上げて、「じゃあ、お前の後でな」と濡れたジーンズのまま畳に腰を下ろし、四角い座卓の上のノートパソコンを開いた。意識をそちらに向けた男に、千歳は諦めて奥の引き戸を開け、何もない板の間でずぶ濡れのユニフォームを脱いだ。板の間の更に奥に一段低くなった狭いスペースがあり、隅に洗濯機用の排水溝と、上には物干し竿がロープで括りつけられていた。錆びた物干し竿のすぐ上を薄らと透けたトタン屋根が覆っていて、激しい雨音を立てていた。頭上を滝のような水の流れが覆い、それを見つめる千歳の眼に閃光が走った。
千歳は青い丸石の敷き詰められたタイルの浴室を見渡し、仄暗い電球や小さな窓に掛かる蜘蛛の巣を見つめ、自分が今どこにいるのか分からない感覚に陥りながら熱いシャワーを浴びた。雷鳴がこの小さな浴室を包むように響いていた。目を閉じるとシャワーの湯気の向こうで微笑む佐織の顔が現われ、その柔らかい指先が自分の頬をゆっくりと撫でていった。喉の奥を熱いものが渦巻く。飲み込んでも、飲み込んでも、流れてはいかず、喉を突き破って出てくることもない、重苦しい熱。ああ、そうだ。千歳はゆっくりと目を開け、足元の排水溝を見た。これは、大雨がもたらした機会なのだと。はじめてあの男に会った時に腹の底から生まれた熱の塊りの正体を、今見定める時なのだと。取りとめなく散らばる意識の一欠けらに、ボディバッグの内ポケットに仕舞い込んだままの包丁が光り、千歳は水音に紛れて「太一」と呟いた。太一。お前は、人を殺したいと思ったことはあるか・・・
板の間に量販店の袋ごと置かれた黒い無地のTシャツとカーキのチノパンに着替え、千歳は黒田に言われるまま座卓の近くを座らされた。差し出された未開封のミネラルウォーターに口を付けながら、黒田が浴室に行くのを待っていたが、男は座椅子に座って動く気配を見せなかった。よく見れば首から下げたタオルの下のTシャツは薄いグレーの色に変わっており、下はハーフパンツだった。
「もう乾いた」
黒田は千歳の視線を感じたのか、パソコンの画面に目を向けたままそう言い、「髪、まだ濡れてんぞ」と脇にあったスーパーの袋から新品のタオルを取り出し、千歳の頭に放った。新品のタオル独特の匂いが鼻を突き、千歳は思わず眉を顰め、水を吸い辛い安物のタオルに自分の髪を押し当てた。その様子に黒田は「前から気になっててんけど、何で坊主ちゃうんや」と千歳の髪に目をやった。千歳が何を今頃と思いながら「これは、佐織が坊主は絶対あかんって」と頭全体を強く擦るように乾かした。
「ふうん。昔は少年団って坊主って決まりやったのにな。今はええんやな。でも、あの小堀のおっさんが許してんのが意外やな」
「全然や。しょっちゅう剃れって言われてる」
「せやろなあ。俺もそれがいらんかった。中学の部活も当然のように坊主やし、それでやめたっていうのもあるな。まあ、顧問に煙草、見つかったせいやけど」
黒田はそう言うと目尻を少し下げて「もともと、俺はお前みたいに上手くもなかったし、努力もせんかったから、そんなんで続くわけないよな」と薄く笑い、開いていた本を閉じた。座卓の上にはハードカバーの本が山積みとなっており、黒田は一冊ずつ手にしては、表紙をなぞったり、最後のほうのページを開き見ながら、パソコンに文字を打ち込んだりしていた。六畳ほどの和室には他に家具と呼べるものが小さいテレビとその台、がたっと音を立てて首を振る古びた扇風機くらいしかなく、あとは擦り切れた大きめのザックと紙袋などが乱雑に置かれていた。玄関の土間や浴室、板の間などは薄暗いオレンジ色の電球であったのに、この部屋だけは真新しい蛍光灯が付いており、そのやや明る過ぎる青白い光は、薄緑色のざらざらした壁の質感や黒っぽい線のような染みが幾つもある天井の隅々をまざまざと浮かび上がらせていた。千歳はそっと、薄緑色の壁に触れた。ざらつきは思ったよりなく、じっとりと水気を含んだ固い土を撫でているようだった。
「あんま擦ると、砂、落ちてくるぞ」
その声にぱっと手を離した千歳を、黒田はおかしそうに見つめ、「珍しいか?長屋とか、初めて入ったんやろうな」と言った。千歳が長屋という言葉に反応出来ずにいると、「昔は文化住宅、なんて年寄りは言うてたけど、単に古いだけや。物音や声は隣同士筒抜けやし、あちこち隙間だらけで虫は入り放題。夏に缶ジュース机に置いてしばらく放っといたら蟻の行列出来てたな。鼠も普通に出るし」
「鼠?」
「寝てる傍をこう、ちょこちょこって通っていきよる。昔の話やけど。こっち、帰ってからはまだ見てないから、さすがに駆除したんかも」
雷鳴と、物干し台のトタン屋根を叩く雨音はいよいよ強くなっていた。その音に混じり家のどこからか板の軋むような、何か小さいものが転がるような音が聞こえる気がして、千歳は天井や壁を落ち着きなく見渡した。
「テレビでも観るか」
黒田がリモコンを取ろうと腕を伸ばした拍子で、テーブルの上に積まれていた本が崩れ、畳に落ちた。拾い上げた分厚く文字のみの表紙の本に、千歳はクラスメイトの拓磨を思い出した。何の縁があるのか、幼稚園から同じクラスの彼は、太一とはまた違う種類の幼馴染だった。家に遊びに行っても、こちらに構うことなく本ばかり読んでいる。千歳は拓磨のマインクラフトで彼の作った長い長い洞窟を辿ったりした。十畳和室の彼の部屋は静かで居心地が良かった。当時を僅かに思い出し、所在なく本を元に戻した千歳に、「これとかやったら、小学生でも読めるぞ。理科とか、生き物好きか?」と、黒田は薄いB5サイズのカラー写真集を差し出した。暗闇に赤い水母らしき発光生物が浮かぶ表紙には『深海の世界』とあった。理科も生き物も大して興味はないが、一時期クラスの男子の間で深海生物が流行ったことがあり、何となく受け取って適当にページを捲った。流行ったのは深海生物というより、奇妙奇天烈な容姿を持つ生き物を集めた図鑑だった。頭部が透明だったり、虹色に発光したり、口や目が極端に大きいエイリアンのような深海魚たちは特に人気だったが、千歳は全く関心が持てなかった。それが顔に出ていたのか、渡された本を捲り終えた千歳に、黒田は少しだけ淋しそうに笑った。細められた目は穏やかで、温かく、こんな表情をするのだと思った。千歳が内心の驚きを隠すように「俺、あんま本とか読まんから」と言うと、「俺もや。せやから、今、苦労してる。爺さんの本、さっぱりや」と笑った。
「でも、お前、頭も良いんやろ。野球ばっかしてんのにテストは満点やって聞いたぞ」
黒田は誰からとは言わなかったが、勿論千歳には分かっていた。黒田もそれに構う風もなく「可愛いんやろうな・・・お前の話ばっかりや」と言い、リモコンの電源ボタンを押してからそれをこちらに寄こした。テレビのか細い雑音が流れると同時に、ボディバッグからラインの着信音が鳴った。脱いだ靴下をそのまま丸めて中に突っ込んだせいで泥が付いたスマートフォンを取り出して見ると、佐織から《今終わった~雨すごいけど大丈夫??》とあった。八時四十分だった。千歳は《大丈夫》とだけ返信し、ボディバッグの中に仕舞おうとしたが、内ポケットの尖った膨らみを見て手を止めた。しばらく入れっぱなしにしていたために、内ポケットのナイロンが破れかけていた。若草山山麓の刃物店で祖父が結婚する母のために特別に誂えたという刃物一式のうちの一本が、泥の付いたナイロンの下で惨めな姿を晒している。こいつはきっと、こんな風な扱いを受けるために生まれてきた訳ではないだろう。
大丈夫、か。一体何が大丈夫なのだろう。佐織のこの口癖は、はじめから千歳が大丈夫だと答えることが前提の問いであるような気が、ずっとしていた。
「なあ、知ってるか」
「え?」
心臓が一瞬大きく跳ね、千歳は黒田の顔を見上げた。サッと部屋全体に白い光が差し込んだ。黒田の目線はパソコンの画面と手元の本を行き来したままだった。
「人間の胎児ってな、受胎して、ひと月から何日かのちょっとの間に、海の生き物が陸の生き物に進化していく過程を辿るんやって。何万年、一億年かけた上陸の歴史を、たったそんだけの時間で」
何を言い始めたのか分からず、千歳は鼓動を抑えようとするのに気を払い、首を横に振った。黒田は小さい眼球を少し動かしてこちらを見、また目を細めて「難しいことは俺もよう分からんけど」と本を置き、軽く伸びをして、煙草を吸い始めた。
「大昔、人類の先祖が、もともとおった海に戻るか、よう知りもせん未知の陸地へ上がるかの選択で、陸地を選んだから、俺らは今こうして息して立ってるっていう話や。簡単に言えばな。それが、母親の腹の中で起こってるんやが、なかにはそれを嫌がって、もとの海に帰りたがるやつもおる。精一杯、身体じゅう、手足伸ばして踏ん張って、必死に抵抗しながら打ち上げられた奴らはどっかおかしなもん、抱えて生まれてくるんや。何かが足らんかったり、いらんもんあったり。単なる一説やけど、それってもしかしたら、ほんまにそうで、抵抗の痕って見える部分に限らんのかもって思ってな」
低く落ち着いた声で何か物語を読むように言うと、ふーっと天井に向けて煙を吐いた。稲光の後の雷鳴は唸るような音に変わっており、トタン屋根を打つ雨音もいつのまにか小さくなっていた。珍しく饒舌を振るう男に、千歳はただ黙って立ち上る白い煙を目で追った。
「もしそうやったら・・・お前はきっと、まっさきに、何の未練もなくさっさと陸へ駆け上がっていったんやろうな」
天井のほうから、微かにカリカリという擦れる音がして、千歳は鼠がいるのだと思った。黒田は眉をぐっと下げて小さく笑った。口元は微笑んでいるが、その眼は昏かった。
「意味分からんよな。どうでもええ話や・・・雨、ましになったみたいやな」
立ち上がって裸足のまま玄関の三和土に下り、引き戸を開ける男の尖った背中を居間から見つめ、千歳は先ほどまで確かに自分の中にあった殺意という名の熱が宙づりのまま、小さく萎んでいくのを感じていた。
家の前の通りは驟雨に浸され、側溝から濁流が溢れていた。黒田は引き戸にもたれかかってそれを眺め、「今日は送るから、帰り。車、借りてくる」と言ってずぶ濡れのままのスニーカーを突っ掛け、どぶ川のような通りに消えていった。
自宅に戻り、泥の付いたユニフォームを水洗いしていると佐織が帰って来た。すぐ洗面所まで来て「ただいま、もう、すっごい雨やったね。足ぐちょぐちょやわ、気持ち悪い」と顔を顰め、浴室の電気を付けると、背を向けて短い丈のワンピースを手繰り上げた。
「ちーちゃん、ごめん、これ、引っ張って」
濡れて肌にぴったりと付いたワンピースが肩の辺りで引っ掛かり、佐織は両腕を上げた状態でこちらを向いた。千歳は蛇口の水を止め、タオルで手を拭いてから、白地に植物柄の模様が入ったワンピースを引っ張り、佐織の両腕から引き抜いた。
「ありがと」
「雨、濡れたんか?」
「ううん。小雨になるまでスタバで時間潰してたし、大丈夫。ちーちゃんは大丈夫やった?」
「ずっと中におったから、大丈夫や」
佐織は「そ。良かった」と言い、脱いだ下着をネットに入れランドリーボックスに放り、「あ、ユニフォームこっちで洗っとくよ」と、洗いかけのユニフォームを掴むと浴室の扉を静かに閉めた。
千歳は洗面所から寝室へ向かい、ベッドに仰向けに寝転んだ。シャワーの音が仄かに青白い無音の部屋に届く。今日は疲れた。閉じた瞼の裏に、白く薄い佐織の腹が浮かび、千歳は指で目頭を強く圧した。
ほとんど自分のことを話さない黒田がおもむろに話し始めたことは、千歳には半分も分からなかったが、ただひとつ引っ掛かったのは「母親の腹の中」という言葉だった。かつて自分も居たその場所に、もう一人、弟か妹かも分からない豆粒の大きさの胎児が居たことを思い出し、同時に、流産し泣き暮れる佐織の姿を目にした時の漠然とした不安が立ち返った。
小学校に上がる直前の頃だった。保育園に迎えにやって来た祖父に「今日はおじいちゃん家に泊まりなさい」と言われ、翌日祖父母とともに自宅に戻ると、佐織がベッドにうつ伏せて震えていた。千歳に気付くとベッドの上を泣きながら這って、抱きついてきた。いつもの優しい抱擁とは違う強い力で抱き締められ、頭から肩、背中を、まるで骨をなぞるように何度も撫でられた。そしてか細い声で「ママのお腹の赤ちゃん、死んじゃった」と呟いた。千歳はその言葉を飲み込めず、ただ嗚咽する佐織を可哀想に思いその細い身体を撫で返した。そして、こんな時でも彼女の傍にいない父を殺してやりたいと思った。
佐織が父と離婚したのはその半年後。その間に、佐織はもともと細い身体が更に瘠せるほどやつれ、仕事をしばらく休んだりしていたが、千歳の前で泣くことは一度もなかった。父が出て行ってからは、顔色も体重も元に戻り、笑顔で仕事や千歳の世話に励んでいた。けれども佐織は時折、突然時間が止まったかのように固まり、どこか一点を見つめて静かに涙を流し出すという妙な癖を見せるようになった。それは何の前触れもなく起こるようで、料理の途中や洗濯物を畳む途中、それまでの動きをぴたっと止め、動かなくなる。涙を溜めた眼には、何も映っていないように思われた。何度かその姿を目にしているうちに、千歳は佐織を泣かせるものの正体に気付いた。あの豆粒ほどの小さな存在が未だに佐織の腹の中に居続け、彼女を支配しているのだと・・・
シャワーの音が止まり、家中が静寂に包まれた。染みひとつない白塗りの天井を見つめ、千歳は佐織の立てる物音に耳を澄ませた。瞼を下ろすと染みだらけの木目の天井が現われ、薄緑色の砂壁を研ぐ鼠は黒い蜥蜴となった。その蜥蜴の言葉が切れ切れに浮かぶ。もとの海に、帰りたがるやつもおる。
あれは、小さ過ぎるあいつは、自分から望んで海へ帰ったのか?
もしそれが本当なら、佐織に伝えたいと思った。そうすればもう、いきなり世界中からただ一人取り残されたように虚ろな眼で泣く、あの姿を見ることはなくなるのだろうか。千歳の瞼の裏に、目にしたことのない、白く霞んだ大海が静かに広がっていた。
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